国家負債という「時限爆弾」を抱える日本経済
これまでの西洋における景気下降局面は、いずれも経済循環のサイクルの中で立ち直ってきた。ギリシャとスペインを除き、財政規律が比較的守られている国々が西洋では多い。しかしそのギリシャ人ですら、「我々は日本よりましだ」と言う。
日本の国家負債のレベルは、経済循環サイクルの中で解決されるレベルではなくなってしまった。
それというのも日本という国が、90歳を超えた老人のように超高齢化という世界史上まれにみる現象に見舞われ生命の維持は難しい事態に陥っているうえ、大震災の回復に膨大な国家予算を使わなくてはならないにもかかわらず、どうしたことか、たった1カ月のことにしかすぎないオリンピックに国家予算を注ぎ込み、さらに、小さな島の守りのために中国を敵国とみなして防衛予算を大幅に増加させているからだ。
政府の負債の容赦のない上昇について関心を高めた人たちは、同じ行動に到達する。「売り」である。市場を破壊する果てしない「売り」を非難する最後の1人が口を閉ざしたとき、最終的な破局が始まる。
ただし「資本主義は天井にぶつかり、もうこれ以上は手の打ちようがない」と思われたとき、市場は重力に逆らって、もう一度だけ反転するだろう。致命傷を負った獣が最後の瞬間にハンターに激しく襲いかかるように、市場経済の年老いた支持者たちが、怒り狂った最後の戦いもせずにギブアップするとは思えないからだ。
しかしこの最後の戦いも、ついには敗北に終わる。
ますます極端になる世界の富の偏在
本書(『預金封鎖 あなたの金融口座を国家が奪うとき』きこ書房)が最終的に示す未来像は、とりわけ大西洋の両岸の西洋の人々(イギリス人、ヨーロッパ人とアメリカ人)と太平洋の両岸の人々(日本とアメリカ)にとっては、暗澹たる世界と思われるかもしれない。
世界の富の偏在は、ますます極端なものになり、西洋と日本では庶民の生活水準は二度と元には戻らないだろう。そして「財政的な繁栄こそ自分たちの存在の究極の目的である」と信じていた中流の多くの人々は、「生活の質と持続性こそが、はるかに満足できる目標である」という考え方を再発見するだろう。
長期的に復活してくるものと私が予想するのは、人々の共同的なライフスタイル、インフレとの決別、自然に対する新たな敬意の広がりなどである。別にユートピアの夢想を語っているのではない。悲しいことだが、人々に一丸になって働くことを強いるような大不況が起きるだろうと予想しているのだ。それによって戦時と同様に、人々が団結する姿が見られるだろう。
今回の日本に訪れる破局はまた、地質学的な制限要因と極端な人口減少が結びつき、資金不足と医療・公共サービスの停止という形で、日本民族の顔面に跳ね返ろうとしている。
我々の先祖は自然界を恐れ、尊重することができるくらい謙虚だったが、我々は自分たち人間こそが自然界の主人であると思い上がるほど傲慢である。しかし我々は、実際には地球という環境の中で、人類のちっぽけな手には負えないほどの力学を扱っているのである。
国家の負債という幻の資金に立脚する経済成長が、破綻危機を引き起こす。その危機の後では、人類は借金という麻薬への依存をやめざるを得ないだろう。
日本という国家の負債依存症は、ギリシャよりはるかにタチが悪い。それは、国家の負債を増やす決定をする者たちが、いつも負債からの攻撃の安全地帯にいるからだ。