『ミリオンダラー・ベイビー』から読み解くアメリカの生活様式
小さなボクシングジムを経営するフランキー・ダンは優秀な指導者だが、ボクサーの安全を守ろうとするあまり、タイトル獲得の機会を逃したと感じる教え子たちは皆離れていってしまう。
そんなフランキーのもとを、マギーという女性が入門したいと訪れる。マギーはボクサーとしての才能を発揮し、ついに100万ドルの賞金がかかったタイトル戦の権利を手に入れる。だが、相手の反則行為により彼女は脊椎を損傷し、全身不随となってしまう。
マギーは絶望し、苦しみを終わらせてほしい、自らを殺してほしいとフランキーに請う。それを頼めるのは、いつしか父と娘のような関係となった彼だけだった。
安楽死を題材にしたと見られがちだが、一方でスクリーンに映し出されるのは、貧困の果てに分断された家族の姿だ。ボクシングを始めたことで自分の価値を示そうとするマギーに対して、母と妹の家族は冷たい視線を送る。早く男を見つけて結婚でもしろ、と母は言い放つ。
だが、マギーが寝たきりとなりファイトマネーが入ったと知るや、彼女らはマギーの病室を訪れる。見舞いに来たのではない。お金を奪い取りにやってきたのだ。母と娘は体の動かないマギーの口にペンを加えさせ、なかば無理やりに財産分与のサインをさせる。
娘は家族に愛を求めたが、家族は娘に金を求めた。冷え切った家族関係は、この頃、そして今のアメリカでも決して珍しいことではないと、映画評論家のジョナサン・ローゼンバウムは言う。
じつは誰もが孤立している―ジョナサン・ローゼンバウムの証言
【ジョナサン・ローゼンバウム】
「私がこの映画で感動したのは、人はそれぞれ自分なりの道徳観を作れるのだということ、そして人は成長して自分なりの家族を作れるのだということです。つまり、自分が生まれる家族は選べませんが、どんな家族を作るのかは決めることができるという考え方です。
貧困に追い詰められた女性がボクシングというスポーツに出会って努力する中で、トレーナーとなった老人と心を通わせ、親子のような関係を築きます。事故で体が動かなくなった彼女は絶望し安楽死することを、その『父』に頼む。
そこに見られるパラドックスは非常に複雑で心をかき乱すと同時に、感動的でもあります。
この作品で映し出される家庭は、今も続くアメリカの生活様式です。根無し草のようにあちこち移り住む生き方です。長い歴史を持つ文化に見られるような安定性を欠いており、日本に見られるような歴史感覚や帰属意識のようなものがアメリカにはないのです。
偉大な美術評論家ハロルド・ローゼンバーグがアメリカという国について言ったとおり、『誰もが交じり合おうとしているけれども、じつは誰もが孤立している』のではないでしょうか。
『ミリオンダラー・ベイビー』はそうした考え方をよく表わしていると思います。『自分の運命は自分で切り開かなければならない。たとえ死が待っていようと』というように。その悲劇的な状況を感動的に描いているのです。」