「人の目」と「共感性」は、自分の勘違い!?
こうした「人の目」と「共感性」のセットが、多くの場合、同調圧力を受け入れてしまう原因でしょう。
たとえば、電車にご高齢の方が乗ってきたとき、ちょっと離れた場所で座っていても同調圧力を感じてしまわないでしょうか?
これも、「座っている私のことを周りの人はどう見ているだろう?」という人の目と、「疲れていて席に座りたそうなのに近くの人は誰も譲ってくれなくて、みじめな思いをしているんだろうな……」といった共感性がセットになっているから。
でも、実際には、「こちらに席がありますよ!」とご高齢の方に席を譲ろうと立ったら、「すぐ降りますから、大丈夫です!」と断られて、その後なんとなく車内で居心地の悪い気持ちになってしまった経験のある人もいるでしょう。
つまり、自分が「人の目」として感じているものも、「共感性」として感じているものも、実は勝手に想像したものに過ぎない。
一見、思いやりと親切心に満ちているように思えますが、裏を返せば、他人の気持ちを勝手に「こう思っているはず」と決め込んでいる傲慢さがあるのです。
にもかかわらず、相手の気持ちを想像し続けては、自分の感情が揺さぶられ続け、感情の波に飲み込まれ続けて、溺れてしまう。
これを繰り返してしまうのが、同調圧力の沼にはまっている状態なのです。
他人の感情に越権行為をしない
では、どうして、この「人の目」と「共感性」のセットから抜け出せないのか。
それは多くの場合、親や学校の教育の中で、「相手の立場に立ってものを考えなさい」と教えられてきたからでしょう。
しかしその結果、前述のとおり、相手の感情を考えれば考えるほど、自分は不安定になってしまって、同調圧力を受けて自分らしく生きられなくなってしまったわけです。
その一方で、海外や帰国子女の人たちというのは、親や学校教育の中で、自分を主張することの重要性を教えられてきたのではないでしょうか。
だから、多くの日本人よりも、人の目を気にして萎縮したり、共感性によって行動を控えたりせず、自己を主張し、自分を大切にするのでしょう。
そして、この姿勢こそが、同調圧力をかわすうえでの土台となります。
すなわち、「他人の感情に責任をとるのではなく、自分に責任をとる」ということです。