差し伸べられた助けの手を取れるか?
年金で老後の生活が保障されない少子高齢化社会において、わたしたちが恐怖を感じているのは老後破産することです。具体的には老後にお金が底をつくことに対する恐怖です。その恐怖から逃げるため直接的な手段として国は退職年齢を延長させたり労働市場を再編成しようとしたりしています。これら国の施策が功を奏すれば、お金の面では不自由せずに済むかもしれません。
しかしわたしはお金が底をつくだけで即、貧困に落ちるとは限らないと思っています。豊かな知的資産があれば、本連載第三回掲載「高齢無職世帯(夫65歳以上、妻60歳以上)の家計収支が5.5万円の赤字となる根拠」にあるような赤字を垂れ流すことなく、お金が減っていく恐怖にとらわれることなく、豊富な選択肢から楽しみを見出して笑顔で生きていくことは可能です。
問題は、個人の能力だけでは切り抜けていけないような大きなアクシデントに見舞われたときに、周囲から助けの手を差し伸べてもらえるか?ということです。また、老化に伴いお金を稼ぐ能力は衰えていくものですが、そうしたときに助けとなるのが社会との繫がりであり、その差し伸べられた手を取れるか否かです。知的資産を獲得するよりもはるかにたやすいことのように思われるかもしれませんが、それをあえてやらないことで命を落とす人が多いのです。
前回お話したアニメ映画「火垂るの墓」の冒頭では、衰弱して道端に横たわる清太のかたわらに通りすがりの女性が握り飯を置くシーンがあります。終戦直後、日本中が貧しく荒廃した時代であっても、見返りを求めることなく食べ物を与えてくれる人はいたのですが、その食べ物に手を付けることなく清太は死にます。
英国のことわざに「馬を水辺に連れて行くことはできても、水を飲ませることはできない」というものがあります。個人資本を充実させてお金の心配をなくすということは、馬を上手にコントロールして水辺に連れて行くことです。しかし水辺で水を飲むかどうかは馬が決めることですよね。