お侍さんのサービス残業
江戸時代の人々の労働時間はどういったものだったのでしょうか。後期の暮らしを中心に見てみましょう。
農民の場合、労働時間は「朝日が昇ってから日が沈むまで」。左官や大工といった職人も似たようなもので、日の出とともに起き出して働き、日の入りとともに仕事を終えていました。昼食の時間に加えて、間の休憩もちょくちょくあったので、実質的な労働時間は8〜10時間ぐらい。冬になると実労働時間は5時間程度になったようです。
商家で働く番頭や手代たちはもっと忙しく、朝7時から午後7時まで12時間労働が普通でした。商家の見習い労働者である丁稚は、雑用や小間使いなどで1日中こき使われ、1日に14〜16時間も働かされる場合もありました。
一方、行政官にあたる武士階級の働き方は、もっとゆったりしていました。大久保利通の日記によると、薩摩藩の勤務時間は朝の9時、10時頃から昼の2時頃まで。元禄期には「1ヵ月に3度ほど、9日に1度ほど出仕すればよい」というおおらかなものであったようです。
しかし、出仕する時間は短かったのですが、彼らには自宅などで執務を行う義務がありました。業務時間外は自由時間などではなく、自発的に行政・軍事の業務を遂行する責任を負っていたのです。
特に執務時間に制限はなく、完全に自己裁量だったので、早朝から深夜まで公務に励んでいた人もいたと思われます。その一方で、副業が完全に禁止されていたわけではなかったので、経済的に困窮した下級武士は、業務時間外にアルバイトをかけ持ちして家計の足しにしていました。
現代のフレックスタイム制と似ているような気もします。しかしフレックスタイム制が業務時間と業務時間外を切り離すことができる一方で、侍は「常に業務時間で、その合間に時間を見つけて私的なことをやりなさい」と言われているようなものです。私的な時間が保証されていないというのは、現代的な価値観ではブラックです。
ただ現代でも業務時間外で自発的な業務遂行が求められる場合がありますから、そうした人々はまだ「侍的」な働き方をしていると言えるかもしれません。