「働かざる者食うべからず」からの脱却
第2次世界大戦後から、特に西側諸国は社会福祉を積極的に導入します。失業、病気やケガなど、それまでは個人の「自己責任」だった事柄について、国家や企業がセーフティネットを整備するようになっていきました。
背景には「人間が人間らしく生きるため」という理念もありましたが、国や経営者にとっては「労働者との争いを避けるため」というリスク回避策でもありました。
ここで、社会福祉の歴史についても振り返ってみましょう。
伝統的なヨーロッパやイスラムの宗教観では、貧しい者が豊かな者から施しを受けるのは当然と考えられました。豊かな者は「神の慈悲を請う機会」を貧しい者から与えられているとされたからです。貧しい者にも社会的役割があるわけで、施しを受けているからといって別に負い目は感じなくてよかったのです。
現代でもイスラムの教えが強い中東の国にはこのような感覚が生きていますが、ヨーロッパでは15世紀頃から意識が変わり始めていました。
施しを受ける人を「働こうと思ったら働けるのに怠けている」とみなし、排除しようとする動きが生まれたのです。農村人口の増加や戦乱によって大量に発生した流浪者は大都市に流れ込み、現金や食べ物、寝床などの施しを求めました。あまりに人数が多く、また中には働こうと思ったら働けるのに施しで暮らそうとする者が多かったため、市当局を中心に「怠け者を排除しよう」とする意識が広がったのです。
ドイツのニュルンベルク市では、1478年には「身体障がいもなく、歩行障がい者でも盲目でもなく、当地で……物乞いを許される男女の乞食」(F・イルジーグラー/A・ラゾッタ著、藤代幸一訳『中世のアウトサイダーたち』より引用)で働ける者は仕事をするように義務づけられていました。
近世に成立した福祉の法としては、1601年にイギリスで成立した「救貧法(通称エリザベス救貧法)」があります。これは救貧税を導入し、救貧院などの収容施設を設け、治安判事や貧民監察員の任命を通じて貧民対策を国家レベルで実施しようとしたものでした。
ただし、働ける者には救貧院で強制労働を課せられており、「働ける者はちゃんと働かせる」ことが基本になっていました。救貧税は一般の納税者にとって「俺たちの金で怠け者にタダ飯を食わせてやっている」と評判が悪く、救貧制度で救済を受ける者は最も低い生活水準の労働者のそれ以下になることが定められました。