福祉国家イギリスのはじまり
19世紀末、イギリス大不況が起こります。すると大量の失業者が生じ、貧困が社会問題となります。労働組合はマルクス主義に影響を受け、急進的な労働運動を展開します。貧困や労働運動が政治的にも社会的にも悪影響を与えかねない事態になり、従来の救貧法では対応しきれなくなっていました。
それまで強かった「貧困=自己責任」が変わり、社会全体で解決していかなくてはいけない問題であるという認識が共有されたのは、2つの調査レポートがきっかけでした。それが、汽船会社の社長チャールズ・ブースによる『ロンドン市民の生活と労働』(1889年〜1891年)と、クエーカー教徒でココア製造業を営むシーボーム・ラウントリーによる『貧困│都市生活の研究』(1901年)です。
ブースの調査では、1週間の収入が21シリングと22シリングとの間に「貧困線」を引き、貧困線以下がロンドンにどれほどいるかを調査したところ、30%もいたことが明らかになったのです。ラウントリーの調査は地方都市ヨークで行われ、同じく貧困層が全住民の約28%にもなったのでした。
生活水準も上がり労働条件も改善し、社会が良くなってきた。多くの人はそう思っていたのですが、実は満足しているのは7割にすぎず、いまだ3割も社会の底辺で苦しむ貧困層がいる。その事実が社会に衝撃を与えたのでした。
当時、理念となったのは「ナショナル・ミニマム」(国民最低限の生活保障)です。これは当初、労働組合が経営者に最低限の労働条件の保証を求めるものでしたが、やがて国民生活全般の福祉を保障する政策要求にまで発展しました。
20世紀初頭には、国民福祉のための法が相次いで立案され可決されていきました。バルフォア教育法(1902年)、老齢年金法(1908年)、職業紹介所法(1909年)、最低賃金法(1909年)、そして1911年には国民保険と失業保険の2つからなる国民保険法が成立しました。
これまで下層労働者は「友愛協会」などの組合保険に加入することができなかったのですが、国民保険法では下層労働者が疾病や失業により収入が断たれる問題を、最小限度の保険料で保証することを目指しました。
労働者は保険料を4ペンス、経営者が3ペンス、国が2ペンスを支払い、もし必要になったら無料の医療サービスと投薬、傷病手当が26週まで週10シリング、それ以上の休業には週5シリングが支給されるというものです。こうしてイギリスは福祉国家への道を開いていきました。