「理想の自分」を目標にしてはいけない
私たちの世代(昭和入社組)は、タフだった。
それには理由がある。脳が、「自分」ではなく「組織」を目標にしていたからだ。時代がそれを要請してくれたから、「自分」にこだわらなくて済んだのである。「自分」を見なくていいのは、本当に楽な職業人生だった。
だから、それを、若い人たちにも知らせておきたい。
今の社会人教育は、「なりたい自分」を想定したキャリアデザインを推奨している。
入社5年目までの、まだ脳の個性も決まっていない若い人たちに「なりたい自分」「素敵な私」を描かせる人事教育も流行(はや)った。
私は、脳の観点から、これは危ないと警告し続けている。
「理想の自分」を脳の目標にしてしまうと、脳の世界観が「自分」でいっぱいになってしまう。
このため、自分が叱られたり挫折したりするたびに、脳の座標軸が揺らぎ、目標を見失って、脳のストレスが甚大になるのだ。「組織の成果」が脳の目標ならば、自分の挫折なんて、脳にとってちっぽけなことなのに。
若い人に、「理想の自分」を目標にさせるのは、あまりにも残酷なのである。
「自分の失敗」を3分以上も引きずる必要はない
その昔、企業人は歯車の一つだった。成果を生み出す働きアリだったのだ。そのことには、さまざまな弊害もあって、当時にまるまる戻ってほしいとは思わない。けれど、「自分」を見つめすぎる今の時代に、この「いいところ」だけは伝えておきたい。
私がタフだったのは、「お前がどうかなんて関係ない。人工知能の夜明けを見るためには、歩みを止められない。とにかく歯車を回せ」という社会の風潮のおかげだった。私の日々の挫折なんてちっぽけなことだったし、落ち込んでいる暇もなかった。同僚は戦友で、互いに必要なことを、必要なタイミングで率直に言い合えた。
「大きな目標のために、小さな歯車になる」ことの個人の脳への利点は、たしかにあるのである。脳の世界観が大きいので、日々の小さなことが気にならない、という。
SNS全盛期の今、「日々の小さなこと」をクローズアップするのが、世界の流行りでもあり、人々の脳の癖にもなっている。その脳の感覚が、職場の「小さな失敗」にも適用されて、個々人の脳の中で大きくなりすぎているのではないだろうか。
経営者になってみてわかったが、命にかかわらない失敗は、実のところ、会社にとっては想定内だ。会社も上司も、「想定内の失敗」を繰り返して成長してもらうつもりなのである。社会人生活が長いと、失敗が次の新発想を生むのも、よくわかっているし。
失敗は、その瞬間、胸を痛める必要はあるが、3分以上もくよくよしたりグズグズしたりする必要はない。
「夢見る力」を眠らせてはいけない
社会が「大目標」を掲げてくれず、会社に「駆け上がる目標」もない今、会社は個人に期待するしかない。このため、企業の主人公が「組織の成果」ではなく、「社員一人一人」になっている。
「一人一人を大切にする」ということばは美しいが、責任を押し付けられて「素敵な自分」を目指させられる若い人も難儀だなぁと思う。
どうか、そんな罠(わな)にはまらないで。「組織の成果」に目を向けて、「自分の日々の挫折」が小さく見える視点を、自分で持っていてほしいと思う。
もちろん、政府には企業が目指せる「大目標」を掲げてほしいし、各企業には「駆け上がる目標」をぜひ、とも思うけど、ここまで成熟した社会ではなかなか難しいと思う。人類の平均的な想像力をはるかに超えた“未来社会”を私たちは生きているのだもの。昭和の時代のように、そう簡単に「未来はこうしよう」が出てくるはずがない。
それでも、リーダーたちは、夢見る力を眠らせてはいけない。
「大切な人たちにどうしてあげたいか」だけを考える
そうそう、いつだったか、ある政治家が、政府の科学技術開発予算を圧縮しようとして、「世界一になる理由は何があるんでしょうか。2位じゃダメなんでしょうか」と発言したことが話題になった。世界一を目指さなければ、もっと研究費を圧縮できるでしょうに、と。
あの時、公には誰も反論しなかったけれど、私は、その発言の政治的センスを疑った。国にはプライドをかけた大目標が要るのである。上を見ておかないと、若い人たちの脳の中で自我が肥大して、疲弊してしまう。
夢見る力。それは、コロナ禍によって引き起こされたパラダイムシフトの時代に、あらためて政治家や事業家に不可欠のセンスである。国や会社を評価するとき、トップリーダーたちのそれを見ればいい。自分の会社のトップリーダーにそれがなかったら、あなた自身がそれを養っておこう。
そのためには、「自分がどう見られるか」ではなく、「大切な人たちにどうしてあげたいか」だけを考えるのである。顧客に理不尽なクレームをつけられたときも、「ひどい」と落ち込むのではなく、「どうしたら、満足させてあげられたのか」「今後はこうしてみよう」と好奇心に変えていく。
手ごわい顧客ほど、面白いゲームになる。「おお、ボスキャラ登場」と楽しめばいい。それを積み重ねていくと、やがて、会社や社会をけん引していく「夢見る力」になっているはず。
「世間に照らして自分を見る」のではなく、「自分の好奇心に照らして世間を見る」のである。世界は、自分のためにある。誰の脳にとっても、本来はそうなのだから。
黒川 伊保子
株式会社感性リサーチ 代表取締役社長
人工知能研究者
1959年、長野県生まれ。奈良女子大学理学部物理学科卒業。富士通ソーシアルサイエンスラボラトリ(現富士通)で14年間にわたり人工知能(AI)開発に従事。その後、コンサルタント会社などを経て、株式会社感性リサーチを創業。独自の語感分析法を開発し、これを応用したネーミングで新境地を開いた。
AIと人間との対話を研究する過程で、男女の脳では「とっさに使う神経回路」の初期設定が異なることを究明。これらの知見を活かした著作も多く、ベストセラー『妻のトリセツ』(講談社)をはじめとするトリセツシリーズが人気を博している。ほかに『成熟脳』『共感障害』(いずれも新潮社)、『ヒトは7年で脱皮する』(朝日新聞出版)など。