倉本聰はなぜ東京から富良野へ移ったのか?
「もしもどうしても欲しいもンがあったら、
自分で工夫してつくっていくンです。
つくるのがどうしても面倒くさかったら、
それはたいして欲しくないってことです」
(『北の国から』より)
1980年代に始まったテレビドラマ『北の国から』の主人公、黒板五郎のセリフです。都会育ちの幼い兄妹、純と蛍を連れて北海道の原野にある廃屋に移り住み、ゼロから始めた生活では、必要なものは自分でつくるしかありません。
このドラマを書いた脚本家倉本聰さんは、御自身東京育ちでありながら1970年代の半ばに富良野に移り住まれました。
たまたま私と同じ職場にいらしたお兄様から昭和10年1月1日がお誕生日(後に本当は9年12月31日と伺いました)と教えていただきましたから、40歳以前でいらしたはずです。お誕生日を覚えているのは私の誕生日が昭和11年1月1日で、丸一年違いだからです。
同じ時代を生きたお仲間です。それにしても今から40年以上前に東京を離れ、しかも思い切って北海道に暮らすという決断をなさったのはなぜなのでしょう。
当時は多くの人が東京に憧れ、集まってきた時代です。でも、実際に住んでいる者としては、何でこんなにせわしないのだろうというのが実感でした。
街中を流れる川や東京湾は汚れていましたし、人間の暮らす場所としてよいところなのだろうかと思い始めていたことを思い出します。私も倉本さんと同じ東京生まれです。当時、急速な経済成長をする一方で、自然は壊されていきました。
地方から来ているお友達が、新幹線が走るようになって便利になったけれど、故郷が急速に変わり駅前がみんな同じになってしまったと嘆くのをよく聞かされました。子どもの頃の思い出の場所が消えるのを悲しむ気持ち、よくわかります。
そして心の中でつぶやいていました。あまり気づいてもらえていないけれど、実は一番変わったのは東京だと。見回すとビルばかり、しかもどんどん高くなっていきます。子どもの頃に遊んだ原っぱなんかどこにも残っていません。
このあいだ育った街を歩いてみたら、ビルの一角に昔からの佃煮屋さんがあり、それだけでその辺りの昔の風景が見えてきて、なつかしくなりました。その頃近くにあったお肉屋の太ったおじさんの笑顔が思い出されたりして。
変わってしまった今の東京は好きではありません。はっきり言えば嫌いです。でも、仕事場は東京にあり、動くわけにはいかなかったのです。
そんな私にとって、倉本さんの富良野への移住はなんとも強いメッセージだったことを思い出します。
最近は、新型コロナウイルスの感染拡大に直面したり、エネルギーを大量に使いすぎたために地球温暖化が進み異常気象に悩まされるようになったりして、都会で高層ビルに密集して暮らすのがよい暮らし方とはいえないと思う人が少しずつ増えてきてはいるようですけれど。
都会を中心にした暮らし方の便利さをよしとする人は多く、職場も遊び場も多い都会、とくに東京へ人々が集まることが続いてきました。その生活を支えているのは大量のエネルギー消費であり、それが二酸化炭素の大量排出となって地球温暖化につながったのです。
この流れは1970年代には始まっていました。具体的には、工場から出る煙が原因で起きた四日市喘息、海に流した有機水銀によって引き起こされた水俣病はすでにその時顕在化していました。
私たちの世代はこの変化を実感し、身に沁みて反省していますので、その気持ちを次の世代に伝えることが大事だとこの頃強く思うようになりました。自分の体験したことは誰にでもわかっていると思ってしまいますが、実はそうではないと気づいたからです。
戦争体験を前の世代の方に伺ってびっくりすることがよくあります。同じように、「公害」という事件のあった時代については私たちが語らなければなりません。