高齢男性の「思考力」「決断力」を巡る、悲しい背景
多くの高齢男性がサラリーマンとして勤めていた会社という組織では、その規模が大きくなればなるほど、自分で思考する場面や自分で決断する機会が少なくなっていきます。
検討事項は機能分化したそれぞれの専門部署が考え、それを会議などで調整し、最後は「皆」で何となく決めたようにして物事が進んでいきます。
決断は上司がしてくれると思っている人は、役員クラスにもたくさんいます。稟議書を見ると一応は決裁者がいますが、実際にはたくさんの印鑑が押してあって、関係者が皆で合議して決めているので、誰も当事者意識や責任感をそんなに持っていない。
日本の会社というのは、自分で考えたり、自分で決断したりしなくてもよいような仕組みになっています。入社してから定年まで思考も決断も、ほとんどしなかったという人がいても、不思議ではないほどです。
会社の共同体を乱さないように、除け者にならないようにするためには、自身の確固たる意志やこだわりなどはないほうがいいという面もあります。そんなことより、今はどういった意見が多数派か、どのような結論に落ち着きそうか、この場で影響力のある人はどのように考えているか、といったことを察する能力のほうが重要です。
自分の感情を騙し、抑えてでも、その場の空気にふさわしい言動を選ぶ処世術、演技力が求められます。
多くの高齢男性が、好むと好まざるとにかかわらず、このような生き方をずっと続けてきました。
しかし、定年して地域や家庭での生活が始まると、急に自分自身で考え、決断しなければならないことが増えてきます。会社のように、決めてくれる人や相談する相手はいません。
何もしなければ放っておかれるだけで、会社のように自然に仕事が降ってくる(与えてもらえる)わけではない。会社では目標や役割があったのに、定年後は自分で考えて、自分で作ったり決めたりしなければ何もありません。会社とのあまりの違いに、とたんに困ってしまいます。
男性は家事や家のことを妻に依存してきただけでなく、会社でも組織や上司、部下に依存してきたわけで、個人で物事を判断し、決め、実行してきた経験に乏しいのです。
会社という共同体の中で、磨かれることがなかった思考と決断する力。これが、男性高齢者には高齢期の暮らしにおいて大きなハンデになります。