今や日常的に耳にする「国際化」という言葉。「外国人のための日本語教室」というミクロな多文化共生の事例から、国際化の具体的な意味と抱えている問題に迫ります。

国際交流の本質は中心的文明に迎合することなのか

国際化の定義と実情

最近、地元の鹿島臨海ロータリークラブ(KRRC)で「国際交流」について話す機会があった。私はロータリアンではないが、現在会長を務めている神栖市国際交流協会(KIFA)にKRRCから理事を出していただいている関係での依頼だと思われる。

 

KIFAは平成二四年に創立二〇周年を迎えたが、KRRCは平成二五年に創立四〇周年を迎えるというからKIFAのちょうど二倍の歴史を有する由緒ある団体である。ロータリークラブは世界的な組織で、奉仕活動をはじめとする多彩な活動を実践している組織なので、私は国際交流、国際化、多文化共生などの関連用語を整理して、その異同を明らかにするような話をした。

 

国際交流は文字通り国際間で人・物・企業活動などを相互交流することである。国際化は、いろいろな国の人々が一緒に生活している状態で、イギリスは日本と同じ島国だが、歴史的に自然な形でこの状態になった(山田一郎『育英通信』一一六号、一九八六)という。

 

また堺屋太一氏は国際交流と国際化を峻別して、国際化の本質を多様な価値観の存在を許容し、これと共存共生する社会になることと規定し、国際交流をいくら拡大しても必ずしも国際化にはならない(『三脱三創』祥伝社、一九八六)としている。

 

さらに国際化の用語法には、ギリシャやローマ、中国、欧米など、その時々の中心的な文明に、周辺の国々が自らを合わせて行く過程であり、現代においては世界システムが動揺しているのでもはや合わせるべき文明がない(村上泰亮『読売新聞』一九八七年四月七日)という見解もある。これによると影響力の強い文明や国が存在する場合には、それらに自らを合わせて行くことを国際化と呼ぶことも可能になるだろう。これは「中心的文明迎合主義」といってもいいだろう。

 

ちなみに陸培春(ルーペイシュン)氏は、日本人の言う「国際化」とは多くの場合、依然として「西欧化」を意味している(『読売新聞』一九八七年三月三〇日)と述べているが、これは堺屋氏的視点からの日本批判ともとれるが、中心的文明迎合主義の指摘ともとれる。

 

次ページ多文化共生が向き合うべき「中心的文明迎合主義」という現実

本記事は、秋山武清氏の書籍『雑草のイマジネーション』(幻冬舎ルネッサンス新社)より、一部抜粋・編集したものです。

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