利根川の氾濫が多く、湿地帯だった関東平野。ここで稲作ができるようになったのは、徳川家康が主導した、利根川の東遷と荒川の西遷が大きいといえます。歴史的背景を探ります。元国土交通省河川局長で日本水フォーラム代表理事の竹村公太郎氏が解説します。

江戸城の発展に貢献した、超大規模治水事業

江戸時代初期、徳川家康によって戦略的な目的で計画された利根川の東遷。やがて治水による江戸防御に目的を変え、荒川の西遷を加えて完成しました。この治水事業が江戸の大都市への成長や、のちの東京の発展の要因になっていきます。

 

 KEY WORD 

利根川、荒川、関宿、東遷、西遷

 

関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は、江戸に帰還後、鷹狩りと称して関東一円を巡視。関東制覇のための情報を収集しました。

 

そこで得られたのが、利根川と渡良瀬川が「関宿」にある下総台地に塞がれ、東から南へと流路を変えるという地形情報です。当時、周辺には有力な大名がおり、東北から南下すれば下総台地を通って、一気に房総半島を制圧できました。また西日本から東北に行く場合も、房総半島で上陸して陸路をとらなければなりません。

 

江戸が拠点の家康にとって、関宿は重要なポイントだったのです。

 

[図表1]江戸時代の関東平野
[図表1]江戸時代の関東平野

 

家康は、大地を掘削して利根川と渡良瀬川の流路を銚子に変える「利根川東遷」計画を立てました。

 

河川の流水で巨大な濠を造り、敵襲を防御するのです。結局、大坂夏の陣に勝利した家康の敵はいなくなりましたが、利根川東遷は続けられました。当時の利根川は、中流域で荒川水系と合流していたため、流域は稲作に向かない氾濫地帯でした。

 

戦略的目的の東遷は、治水による新田開発や舟運、内陸水路開発の意味合いが強くなったのです。1594年に新郷で会の川を締め切った工事に端を発した東遷は、続いて1629年に荒川を西遷させ、下流を隅田川とするとともに、鬼怒川を小貝川と分流させ、常陸川と合流させます。こうして、約300年の歳月と巨費を投じて利根川が改修されたことが、江戸の大発展に貢献したのは周知の通りです。

 

[図表2]荒川の流路の変遷

 

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