「この地域の中で一社もつぶすな」の合言葉
■地域を守るため会員増に励む
ここまで記してきて、同友会がなぜ仲間を増やすことに力を入れているかについて、一つ書き洩らしている事例に気付いた。実はその件については中同協事務局や岩手同友会関係者から間接的に聞いてはいたが、現地を訪れたこともなく、その主役たちにもごく一部しか会っていなかった。
しかし、同友会内ではごく有名な話であった。東日本大震災で大きな被害に遭った岩手同友会気仙支部に関することだ。以下は主として、同友会のパネルディスカッションなどの資料によったものである。
気仙支部の設立は2007年。当時、地域の人口が急減する中で会社経営に悩む陸前高田市の若手経営者が、彼らのリーダー格で、味噌、醤油などを製造している創業200年超という老舗醸造業者、八木澤商店の河野通洋専務の下に集まり、今後のことをしばしば相談しあったりしていた。
この時期、河野氏は宮城同友会に加わり、経営指針書をつくったりしていたが、アメリカ留学の経験を持ち、「社員は俺の言うことを聞いて仕事をすればいい」というタイプで、なかなか社員と心が通いあうような関係を作りあげるところにまでいかず、悩んでいた。
その間にも社員や経営者仲間を宮城同友会の勉強会に連れて行ったりしているうちに同友会活動への理解が深まり、陸前高田にも同友会の支部をつくり、お互い切磋琢磨しようではないかという方向に話が進んだ。こうして2007年に、陸前高田、大船渡両市と住田町の2市1町の、会員28人で新支部が出発することになった。
初代の支部長は、これまでも何かと相談に乗っていた高田自動車学校などを経営する田村満氏だった。田村氏が、岩手同友会が推進する『エネルギー・ヴェンデ』を自社の平泉ドライビングスクール新設に際して率先実行に移したことはすでに紹介した。支部設立に際して田村氏は、一時の思いだけではダメで、継続する組織でないといけないと考え、「3カ月続けて、30人参加する例会ができたら支部を立ち上げよう」とアドバイスし、それがなったところで気仙支部は生まれたのだった。
気仙支部は当初から、「経営者は雇用を増やす努力をする。このために一人でもいいから新卒を採用しよう」「この地域の中で一社もつぶすな」を合言葉に会員が切磋琢磨を続け、会員数は88人まで増えたという。
八木澤商店は河野氏が経営を引き継いだ直後、折からの大水害で工場は被災、社員に給与減額を申し入れるような窮地に陥っており、銀行からは貸金の引きあげ、貸し渋りを示唆されるに至っていた。そうした状況を、江戸時代から続く独自製法の醤油の販売拡大と社員の協力でようやく乗り切ることができ、これからというまさにそのときに3・11の大災難が、陸前高田に襲いかかってきたのだ。
人口2万4000人の町で死者、行方不明者が1800人余、699あった事業所のうち604社が被災するという無残な数字が残っている。八木澤商店もなまこ塀で知られた店舗も、工場や倉庫も壊滅。残されたのは人だけという惨状だった。
ここで注目すべきは会員たちも社員たちも慌てふためくのではなく、社員たちは被災した人たちの救済に走り回り、一方、会員経営者は自社の経営再建に奔走するだけでなく、窮地に立つ仲間のために資金繰り情報の提供や経営の再建計画作成まで手を貸したということである。仲間の中には同友会の会員以外の経営者も含まれていた。
八木澤商店は、そうした中でも社員を一人も解雇しなかった。田村氏は高台にあった高田自動車学校の合宿生を親元に返すとともに、合宿所を避難施設として地元民に開放する一方、校舎を全国の同友会から送られてくる救援物資の配給拠点として活用、なおかつ気仙支部の対策拠点として様々な会議の場として提供した。
その根底には、先に記した気仙支部の「経営者は雇用を増やす努力をする。このために一人でもいいから新卒を採用しよう」「この地域の中で一社もつぶすな」との合言葉が、日々の切磋琢磨のなかで会員の血肉となっていたということだろう。
と同時に、気仙支部が三陸の小都市に基盤があり、会員は幼いころからの顔見知りで、地域に強い愛着を抱いていたことも、背景にあるかもしれない。
11年秋には、気仙支部は外部のNPO法人の協力も得ながら、「なつかしい未来創造」という会社を設立、田村氏が社長になり、企業と雇用の創出に動き始め、ここからも新しい企業が生まれている。現在、気仙支部の会員は被災企業の多さにもかかわらず80社台を維持している。地域を守るためにも、地域の雇用を守るためにも同友会の会員増は必須だということを、岩手同友会気仙支部の例は示している。