親切と幸運の連鎖で11日目に生産再開
岡山を大豪雨が襲った7月6日、山辺氏は中同協の第50回総会・幹事会に出席するため仙台市に滞在していた。会社から大変な雨だと連絡があったが、動きが取れない。ホテルに帰り、インターネットで会社の前を流れる高梁川の水位を確認すると、氾濫危険水位をすでに超えている。
自宅近くにあるアルミ工場は浸水により水素爆発を起こしたとの情報も入ってきた。とにかく明日一番で帰ることにし、万一のときに取る対策をまんじりともせずに考えた。翌朝一番に仙台駅に駆けつけ、東京駅に着くとすぐ羽田空港に向かい岡山便に飛び乗った。
岡山着はちょうど正午。大きな被害を出した倉敷市真備は、まるみ麹本店のある総社市美袋の下流に位置し、堤防が決壊して一面水浸しになったが、総社のほうは内水氾濫といって、堤防が切れず内側に水が溜まってしまった状態だと知らされた。
それならと途中のホームセンターに立ち寄り、排水等のために小型発電機を買い込んだという。もっとも会社に着いてみると、一時は1メートル余りもあった水はすでに引いており、発電機は不要だった。しかし味噌の充填機など多くの機器は水につかって使えなくなっており、味噌や麹の原料の多くも使用できなくなっていた。とにかく蔵中が水浸しであった。
しかしこの時点で山辺氏がもっとも意を用いたのは、社員とその家族の安否確認と、食品関連の企業として衛生環境の早急な整備だった。翌日になると近所の女子高生をはじめ、状況を知った同業者、取引先、お客がボランティアとして応援に駆けつけてくれたし、経営者仲間は土嚢袋や業務用洗浄機などを持ち込んでくれた。
山辺氏は被災した近隣の人たちが温かい飲み物を求めているはずだと思い、自社のフリーズドライの味噌汁を提供する一方、「今までお宅の味噌を愛用してきたが、暫くは手に入らないだろうから、ちびちびと節約して食べている」という消費者の声を耳にすると、「一日も早くお味噌を届けたい、早く製造を再開して煙突から出る蒸気で地域に元気を与えたい」と考えるようになった。
生産再開に向けて機器類をメーカーに発注する段になっても、支援は続いた。例えば故障したボイラーをすげ替えないといけないのでメーカーに相談すると、たまたま他社へ納入する直前のものがあり、その会社がまるみ麹本店に先に回してくれるというのだ。またカップ容器の充填機については知り合いの会社に故障したものがあり、それを自分で直すからと言って貸してもらった。
「たくさんの親切と、いくつかの幸運が重なって、11日目に生産を再開、2週間目には出荷を再開できました」
その後3カ月ほど、山辺氏は人様に助けてもらうばかりだという心苦しさから、虚しくて眠れない夜があったという。「そうか自分ができることで人様に役立つことを、一つでもやり始めることが大事なんだ」と考えるようになって、ようやくゆっくり眠れるようになったという。
いずれにしろ、山辺氏の誠実な生き方と真摯なビジネスに対する姿勢が、顧客、取引先、そして社員の篤い支持をもたらし、水害禍からまるみ麹本店をいち早く立ち直らせたと言っていいだろう。
まるみ麹本店は1950年、山辺氏の父親の光男氏が個人の麹店として創業している。その後、味噌、甘酒と手を広げ、販売ルートもスーパーなど一般小売市場、業務用市場、通信販売、とバランスよく広げていき、今はほぼ3分の1ずつだという。
しかし、今回の危機を乗り越える大きな一助ともなり、まるみ麹本店が70年近い歴史を総社市で刻み込んでこられたのには、2005年に父親から社長職を譲られるきっかけにもなった山辺氏の大きな決断があったのである。03年から、国産大豆の価格が3~5倍に急騰した。父親はこの際やむを得ない、輸入大豆を使おうと言いだした。
創業以来、まるみ麹本店は「日本の伝統食である味噌には、日本の気候風土で育った大豆、米、麦がもっとも適している」との考えから、国産の原料を吟味し、塩や水にも注意を払ってきた。水は電子イオン水を以前から使っているほどだ。
山辺氏は同友会流の理念にこだわり、「わが社のドメインを守るべきだ。あくまでも国産大豆でいくべきだ」と主張し、最後までそれで押し通した。それがこの会社の製品を信頼し、愛用してくれる強固な顧客層をさらに増やすことになった。「なくなると困るから、ちびちび節約して食べる」というような。
まるみ麹本店は売上高2億717万円(2018年6月期)、従業員22人の小さな会社だが、そのブレない経営と経営方針ゆえに、80年後、100年後も岡山県総社を足場にしっかりと生きていくだろう。
清丸 惠三郎
ジャーナリスト
出版・編集プロデューサー