「成長」という言葉に抵抗感が強い経営者もいる
■黒字になる学び、黒字を知る仲間
中小企業家同友会は、元請け─下請けという取引形態の中で、ある意味で大企業の横暴から弱者としての自分たちを共闘して守る運動体として生まれてきた。
しかし戦後の長い経済発展の中で、仲間から大企業へと成長、転換していく会社が出てきたのは当然の動きである。
とは言え、同友会としては、「成長」すなわち「大企業化」を組織の命題とすることは不可能事であった。
言うまでもなく、大企業に対する抵抗体と規定する組織論理と自己矛盾を起こすからである。特に会員の中核をなしてきた製造業系で、堅実経営を旨としてきた古くからの会員には、成長という言葉に抵抗感が強いようである。
しかしすでに紹介したように中小企業家同友会会員企業からは、千葉同友会に加わっていた正垣泰彦氏が創業したイタリアンレストランチェーンのサイゼリヤや、名古屋同友会(現・愛知同友会)の創設メンバーで代表理事を務め、理論的指導者でもあった遠山昌夫氏が創業した菊水化学工業、あるいは創業者の後藤長司氏が初代石川同友会の代表理事を務め、今や国内に130店舗余り、海外にもタイを中心に同じく130店舗余りを展開する異色のラーメンチェーン、ハチバンなど、株式を公開している会社も少なくない。
「第一回日本でいちばん大切にしたい会社大賞」受賞の岐阜同友会の未来工業や、健康食品の通販で知られる福岡同友会のやずやなどは、上場こそしていないが今やグループ年商が300億円あるいは200億円と、いわゆる中堅企業、あるいは大企業と呼ばれる規模にまで拡大してきている。
ほかにも規模はともかく抜群のブランド力を誇る、「三方六」などの銘菓で知られる柳月や「白い恋人」を創案した石屋製菓なども創業者や二代目が北海道同友会元会員であるし、「辛子明太子」を生み広めたふくやは川原正孝・現社長が福岡同友会会員である。これらの企業の多くは経営の基本に企業理念を据えているなど、同友会的経営が厳然として存在しているように見えるが、川原氏や菊水化学の遠山氏を除くと表立って同友会活動に参加しているようには見えない。そういう意味では同友会卒業生と言っていいかもしれない。
そうした事例を見ても、同友会の運動方針の中において「成長」という言葉は、シンプルに肯定的な言葉としては出てきづらいようである。「持続可能な成長を」と言ったように、常に条件付きである。もちろん中同協の全国総会の分科会のテーマ「成長」あるいは「成長戦略」が取り上げられることもないようだ。成長という言葉に、まだまだ抵抗感が強いのである。
そうした中、兵庫同友会においてPORTSTYLEやデジアラホールディングスのような成長志向の強い会社が会員として仲間入りできているのはどうしてだろうか。
背景には、兵庫同友会独特の体質、雰囲気があると言っていい。事実、各地の中小企業家同友会幹部と話していると、「兵庫は独特」という言葉がよく聞かれる。どう独特なのか。何が独特なのか。
例えば兵庫同友会のホームページを覗くと、題字に「クロジノ」とあり、副題には「黒字になる学び、黒字を知る仲間、黒字でいる方法」と記されている。いかにも関西的で、誰もがそこから、企業経営は観念ではなくリアリズムだとの認識を強く感じ取るに違いない。企業である限り潰れてはならない。そのために赤字は許されないのだ。あえて言えば、「黒字でいるためには、またはライバルに負けず、潰れないためには、成長戦略もまた必要」という考えがそこに潜んでいるように思われる。
中小企業家同友会は、経営指針づくりを運動の大きな柱としてきた。この同友会全体の流れと、先の兵庫同友会のホームページの題字とを比べてみると、「兵庫は独特」という言葉が何となく感得できるような気もしないではない。
つまり理念より現実、実践という考え方が優先されているということである。ではどうして、兵庫同友会はそうした思考を強く抱くようになったのだろうか。
契機となったのは1995年1月17日払暁に起きた阪神・淡路大震災であった。兵庫同友会の経営者はこのとき、同友会仲間、同業の仲間、取引先、地域の仲間など多くの仲間を失った。廃業、倒産などなど原因は様々である。なかでも同友会を震撼させたのは、経営指針作成運動を主導してきた兵庫同友会リーダーの会社の倒産だった。
震災後の兵庫同友会を、20年間代表理事として引っ張ってきた日本ジャバラ社長の田中信吾氏は、仮借ない言葉でこう語る。
「同友会には理念を上手に話す人はたくさんいるが、世間や金融機関の評価はそこにはなくて、会社が伸びているかどうか、自己資本が厚いかどうか、震災のような大災害が起きても生き残っていけるかどうかですよ。阪神・淡路大震災後の兵庫の会員はそのことに直面した。そこを経験したことが、兵庫同友会が独特な点、他の同友会と違うところかもしらんな」
別の経営者が、声を潜めてこういう話をしてくれた。「赤字会社の経営者にしてみると、会社に行けば社員幹部、外に行けば銀行、取引先から絶えず責め立てられる。針の筵。しかし、同友会へ行けばそういうことはない。幹部であれば尊敬され、話しなれた経営指針づくり、労使関係のことをとうとうと語れば、自尊心は高まり気持ちいいですからね」
痛烈な皮肉であるとともに、兵庫同友会がなぜ「黒字」を強調するのかその一面がよくわかる。愛知同友会など、規約で債務超過の企業の経営者は代表理事になれないと決めている。反対の声はずいぶんあったそうだが、鋤柄氏らが押しきったという。「いい会社」「いい経営」を標榜し、リーダーとして声高にそれを主張している代表理事が債務超過の企業経営者というのでは話にならない。倒産という事態になれば、同友会そのものの信用問題となる。
田中氏の日本ジャバラも、実はきわどい状況を生き抜いて現在の業界トップの座がある。震災時、神戸市西郊に立地する三木工場には大きな被害はなかったが、市内の本社は半壊、機能不全に陥った。
ジャバラは鉄鋼製品から、船舶、さらには工作機械や自動車など様々な機器に用いられる、目にはつきづらいが重要な部品である。伸び縮みする製品特性が、そうした機能を必要とする機器類の保護や防塵、作業者の安全確保に役立つからである。
日本ジャバラは工業用ジャバラの総合メーカーで、得意先はほとんどが首都圏や愛知の大企業。ライバルもまた首都圏、大阪などにあり、震災時、取引先の多くが無傷だった。
生き馬の目を抜く競争はこの業界でも同じで、田中氏は震災直後、「風評により、得意先が奪われる」ことをまず危惧した。即日、出勤してきた社員を指揮、本社設備・備品をほとんど被害のなかった三木工場に移す一方、全力を挙げて得意先に「工場は無傷なので、製品の搬入に遅れは出ない」と連絡し続けたという。
こうして震災による危機は乗り切ることができたが、経営者として父親が創業したこの会社を今後とも継続していけるかどうかが、田中氏の脳裏に固着して離れない。父親が考案したわが国初の鉄製ジャバラを主力に、これまでは有力メーカーと安定的に取引が継続できたが、「(これからは時代が求める)新商品開発なしに、会社の発展はありえない。社員の幸福も保証しえない」と考えるようになったからだ。
実はこれに先立ち氏は、バブル崩壊後、今後は海外展開が必須だと考え、世界各地の展示会を回ったことがあった。このとき、ヨーロッパの展示会であるイタリアメーカーがプラスチック製ジャバラの試作品を展示しているのを見て、田中氏は興味を持ち、以降、連絡を取るようにしていた。震災の影響はまだ残っていたが、新製品を模索する田中氏に軽量化可能なプラスチック製ジャバラに未来があるのではないかとの考えが強く湧き上がってきた。