中国の「国共内戦」も通貨戦争だった?
■国共内戦も通貨戦争だった
中国大陸で起きたのは、じつは通貨戦争だったということです。当時の中国大陸は日本軍が進駐して、蔣介石の国民党政権が重慶に引っ込み、それから南京に汪兆銘政権が出来て、北には満洲国がある。それで北京は日本軍が占領しているわけです。
他方、毛沢東の共産党が奥地の延安に解放区なるものをつくり、辺区(へんく)券という紙幣を発行しました。この辺区券が通用しないと日本軍と同じようなことになり、毛沢東も解放区をマネージできません。
辺区券をなんとか通用させなければならないとなると、ライバルになる通貨を追い出す必要があります。そのライバルはもっぱら法幣という国民党の貨幣です。当時の中国大陸では法幣がいちばん信用されていました。
だから法幣が使われないようにして、代わりに辺区券を使わせるようにしないといけません。一方で日本軍は現地に駐留して長居するために、軍票が通用するようにしないといけませんが、信用されていないので法幣を獲得するしかありませんでした。であれば、軍票を法幣に替えられればよかったのですが、替えてくれない。それで麻薬の取引に走ったのです。
里見甫が上海でのアヘン密売を取り仕切る里見機関を設立しました。アヘン売買で得た莫大な法幣を日本軍の戦費に充てて、蔣介石の国民党政権に対抗する、親日派の汪兆銘政権にも回しました。こうして大いに麻薬に手を染めていくわけです。
じつはこのやり方は毛沢東も解放区でやっていました。中国共産党が1949年10月に北京で中華人民共和国の建国宣言をしたとき、初代中国人民銀行総裁になったのが、毛沢東の解放区で麻薬販売をやって財政資金をつくった南漢宸(なんかんしん)です。彼らは「アヘン戦争でイギリスはけしからん」と言ってましたが、自分たちも同じことをやって資金を得ていた。
こうして中国大陸における通貨戦争に日本は負けました。それでインドシナに進駐して、真珠湾を攻撃して、敗退していくという構図になるのです。日本軍が負けたとき、中国大陸では蔣介石が天下を取ったカタチになりましたが、ほどなく国共内戦に再突入するわけです。
再び国共内戦が始まったとき、蔣介石のほうは浮かれていました。アメリカのサポートがあるということで驕ってしまったこともあります。蔣介石の金庫番をやっていたのは蔣の妻だった宋美齢の一族ですが、ひどいもので通貨は乱発するわ、汚職は横行するわで悪性インフレを招いてしまいます。
一方の毛沢東の解放区のほうには、国民党のひどい腐敗に愛想をつかした知識人や銀行家、実業家が数多く逃げていきました。こういう人たちが中央銀行制度をつくっていくわけです。いまの中国の経済制度の基礎をつくったのはこの人たちです。
毛沢東自身はお金になど関心はありませんでした。絶対的な専制君主で黙っていてもお金が入る。加えて『毛沢東選集』や『毛沢東語録』で巨大な印税収入がありました。
でも、一方で中央銀行制度を毛沢東が望んでいたかどうかは別として、通貨乱発をセーブしたからこそ、中華人民共和国が大陸を支配することになったのです。
詳細は拙著『人民元・ドル・円』(岩波新書)に記したので、そちらを参照していただきたいのですが、第二次国共内戦では初めから共産党軍のほうが優勢でした。それは通貨戦争において信用があったので、中国人がみんな共産党軍に肩入れしたからです。
それで連戦連勝です。勝って解放区が広がると、真っ先に法幣、つまり国民党の貨幣を駆逐する必要がありました。そのとき「お前らの持ってる法幣はこれから使えんよ」と一切拒否すると人心がなくなってしまいます。だからまず一定の交換レートを決めて、法幣を替えました。
そのときはもう中国人民銀行券、人民元になっていました。ここでキモになったのは人民元が非常に信用のあるもの、つまり乱発したものではないということでした。だから人々が安心して人民元に替えていった。それでさらに共産党軍は勝っていったわけです。
これは軍事で勝っているというよりも通貨で勝っているということです。日本軍のように軍票を乱発して信用されないようなことはありませんでした。
共産党は恐らく、経済・通貨の面で人々の信用を得れば、殊更に銃を撃たなくても、その地域は取れると知っていたのでしょう。そうなると隣の村の人たちも見てますから「あっちのほうがいい」となる。