(※写真はイメージです/PIXTA)

麻酔科医から在宅医へと転身した矢野博文氏は書籍『生きること 終うこと 寄り添うこと』のなかで、「最期までわが家で過ごしたい」という患者の願いを叶えるために、医師や家族ができることは何か解説しています。

40代で突然…「余命は約1年」と宣告され

■Jさん44歳~アスリートとして、夫として、そして父として~

 

バイクと車が大好きなアウトドア派で、トライアスロンやマラソンもこなすアスリートのJさんが左大腿部の違和感に気づいたのは、ある年の春でした。

 

夏には痛みを自覚して病院を受診しました。診断は左大腿部軟部肉腫でした。肉腫はすでに脳、肺、脊椎、膵臓、小腸に転移していました。肺はがん性リンパ管症の状態でした。40歳代前半でこの診断を受けたJさんが、暗黒の中に突然放り込まれたような恐怖を抱いたであろうことは、本人でなくとも想像に難くありません。

 

手術的な治療は困難で、化学療法と放射線療法に望みをかけましたが、余命は約1年と告げられました。

 

そして翌年の春には小腸転移による腸閉塞症状が前面に出てきました。経口摂取はできず、消化管の除圧のために胃管が留置され、飲んだ物も含めて一日2000ミリリットル程度の液状物が胃管を通して体外へ排出されました。

 

栄養は中心静脈栄養に頼らざるを得ず、点滴で生命を維持していました。また脳転移の影響で右手が麻痺して、日常生活に支障が出ていました。

 

■退院できるの?

 

家族は、看護師の奥さん、中学生の娘さんと小学生の息子さんがいました。

 

家族四人全員がJさんの病状や予後を知っており、みんなで病気と闘っていましたが、本人は体へのこだわりが強く、自分が納得した薬剤しか受け付けませんでした。

 

奥さんは介護休暇を取って自宅で最期の時間を過ごしたいと思い、私たちの訪問診療を希望されましたが、本人は「こんな状態で家に帰って療養ができるのか……」と、退院に対しては懐疑的でした。というのも、娘さんの修学旅行が間近に迫っており、自分の体調が悪化すれば旅行をキャンセルせざるを得なくなると心配しているようでした。

 

さらに自宅に帰って自分一人でトイレに行けるのか否かということも、Jさんにとっては大問題でした。結局さまざまな調整をして、訪問診療、訪問看護をほぼ毎日入れて濃厚にサポートしていくことを約束して、退院の運びとなりました。

 

■家に帰って何をする?

 

ゴールデンウィーク半ばの5月3日に退院し、同日に私たちの初診となりましたが、Jさんは胃の膨満感と咳き込むことがつらいと話しました。

 

退院に際して、咳き込み時の頓服としてモルヒネの内服薬が処方されていましたが、内服時には胃管を一時的に閉塞せねばならず、本人は頓服を使いたがりませんでした。

 

また退院前の心配どおり、自力ではトイレに行きにくく、日々できないことが増えていく自分がつらく、どうしても感情の起伏が激しくなり何かと奥さんに当たっている様子でした。

 

麻薬をフェンタニルの貼付薬に変更し、レスキューをモルヒネの坐薬として本格的に医療用麻薬の使用を開始しましたが、Jさんの咳き込みや全身倦怠感は期待したほど改善されず、五月一一日に麻薬の使用法をモルヒネ注射液によるPCA(patient controlled analgesia:自己調節鎮痛法)に変更しました。

 

その結果、咳き込みは幾分抑制され、全身倦怠感も取れて、会話がしっかりできるようになりました。そのことで精神的にも安定し、Jさんは穏やかな顔となりました。

 

五月一二日には訪問リハビリテーションが開始され、ベッドをトイレに近い場所に移動し、点滴ポールを杖代わりにして奥さんの付き添いでトイレに行くことになりました。

 

少しずつ「できないこと」ではなく「できること」にJさんの意識が向き始めましたが、ここでリハビリテーションスタッフが素敵な情報を察知しました。写真館で記念写真を撮ろうという計画です。

 

娘さんにウエディングドレスを着せて、Jさんはタキシードを着て撮るという計画です。その話題の中で「写真館ではなく、自宅のリビングで撮ったらいい」ということになったようです。

 

翌5月13日は娘さんが修学旅行に出発する日でしたが、Jさん夫婦は無事「行ってらっしゃい」を言うことができました。

「娘にウェディングドレスを」…待ち受けるものは

一つのハードルをクリアして安心したのか、Jさんは幾分元気になりました。トイレまでは自分で歩き、リハビリテーションは患部の存在する下肢の筋肉トレーニングを開始しました。

 

どうしてもやりすぎる傾向のあるJさんの気持ちを抑えながらのリハビリテーションです。ここでもスタッフのアンテナが反応しました。娘さんに筋肉トレーニングの介助をしてもらうことを思いつき、Jさんに提案してみたのです。即座にJさんから満面の笑顔がこぼれました。

 

それ以後もリハビリテーション中の会話は弾みました。患側ではない右下肢のストレッチ時には、介護者のストレッチのタイミングとJさんの力の入れ具合をJさんに指導しながら、ストレッチを進めました。アスリートであるJさんはこれも大喜び……。

 

次第に自分からやってほしいリハビリテーションを提案するようになり、前向きなリハビリテーションが可能になっていきました。気分が良いときには娘さんの京都土産の飴を味わったこともあったようです。

 

■苦悩の末に見えてきたもの

 

しかし現実は厳しく、Jさんの病状は日々悪化していきました。PCAの持続注入量もレスキュー量も次第に増加し、不意にむせたりしたときにJさんは動揺して、過換気を起こすこともありました。

 

5月20日ころからは覚醒はしているものの閉眼していることが多くなり、傾眠傾向となりました。その一方で、Jさんの言動には少し諦観したような様子が現れ、スポーツドリンクを300ミリリットルほど一気に飲んで(すぐ胃管から排液されるのですが)「幸せだなー」などと言うようになりました。

 

リハビリテーション中に空想の中で遠方まで走ったり、学校から帰宅した息子さんに「お母さんを頼むよ……」と言いながらハグしたり……。5月22日には懇意の写真館が5月24日に出張撮影に来てくれることになったと、奥さんが教えてくれました。

 

主治医に家族への手紙づくりを勧められていたJさんは、家族写真の裏に「大好き」と指先で直接書こうと考えていたようです。このことを知ったリハビリテーションスタッフはおせっかいかな? とも考えながら、恐る恐る自分のウエディングドレスをJさん宅に持参しました。

 

それに娘さんは大喜びしました。母親に止められながらも少し羽織ってみました。ウトウトしていたJさんはそれに気づき、ドレス姿の娘さんから視線を外さなかったそうです。

 

■あと一日

 

しかし、運命は何ともドラマチックな最期を用意していました。撮影予定日の前日、5月23日の早朝、急にJさんの呼吸状態が悪化したのです。もう少し頑張れば……。

「家族にバトンタッチするような最期でした。」

あと1日を待てず、Jさんは家族に見守られて走り抜けるように旅立ちました。奥さん、娘さん、息子さんは終始そんな父親を見ており、家族にバトンタッチするような最期でした。

 

死亡診断の後、主治医はJさんの髭を剃りました。写真撮影の前に男同士として髭剃りを約束していたのです。リハビリテーションスタッフは写真の裏に「大好き」と書くはずであったカラーペイントで家族四人の足型を取りました。

 

Jさんを含めて四人が走っているみたいに……。

 

Jさん、娘さん、息子さんの足型がそっくりだったので和やかな時間が流れました。その四人分の足型を取った画用紙はJさんのトライアスロンやマラソンの記録を飾ってあるスペースに置かれているそうです。

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矢野 博文

 

1957年7月徳島市生まれ。1982年川崎医科大学を卒業。以後病院で麻酔科医として勤務。2005年3月よりたんぽぽクリニックで在宅医療に取り組む。

 

 

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本記事は幻冬舎ゴールドライフオンラインの連載の書籍『生きること 終うこと 寄り添うこと』より一部を抜粋したものです。最新の税制・法令等には対応していない場合がございますので、あらかじめご了承ください。

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