「責任ある消費」と「贈与」の関係
ここで浮かび上がってくるのが「責任ある消費」という概念です。どういうことでしょうか。
私たちが生きている資本主義の世界では、自分たちが労働を通じて獲得したお金を、どのようにして使おうが自由だということに、建前上はなっています。「自分が稼いだお金は自分が自由に使っていい」ということで、おそらく多くの人は「そりゃあそうだろう」と思うはずです。
しかし、ではあらためて伺ってみたいのですが、その「自由」はどのようにして認められているのでしょうか。これはなかなか一筋縄ではいかない問題で、これまで多くの哲学者がこの問いに対する答えを示そうとしていますが、率直にいってどれもうまくいっていません。
たとえば18世紀イギリスの啓蒙思想家、ジョン・ロックの考え方はシンプルに、誰でも自分の身体は自分の所有物だといえる、そして労働はその身体を通じて行われる、したがって労働の結果生み出された価値はその人のモノであり、その価値と交換することで得られたお金もその人のモノである、したがってそのお金は自由に使って構わない……とまあ、かなり端折りましたがそういうロジックで、これはマルクスも同じです。いわゆる「労働価値説」という考え方ですね。一読して「何か変だぞ?」と思う人がほとんどでしょう。
このロジックのどこに問題があるか。違和感の起点は、最初の命題、つまり「自分の身体は自分の所有物だ」という一文にあります。というのも、ロックは「自分で作り出したモノは自分のモノだ」という命題を証明しようとしているわけですが、その起点である「自分の身体は自分のモノ」という命題は何によっても支えられていない、宙ぶらりんの命題になってしまっているのです。
「自分でつくり出したモノは自分のモノ」であるなら、では「自分の身体」は自分がつくったのか? もちろん違いますね。自分の身体は、生物学的には両親から贈与されたものですし、遺伝子レベルで過去に遡及していけば単細胞生物から延々と続く無限の縁から贈与されているわけで、要するに「宇宙から与えられた」としか言いようがないものです。本来は贈与された身体を「自分のモノ」とすり替えて論理を積み上げているのでおかしなことになってしまっているわけです。
私たちの存在は「死者」と「自然」から贈与されています。贈与されたモノは贈与し返さないといけません。私たちもまたいずれ「死者」あるいは「自然」として未来に生きる私たちの子孫に対して贈与する義務を負っているからです。つまり、私のいう「責任消費」というのは、贈与された私たちの存在を未来の子孫に対して贈与し返しましょう、ということなのです。しかし、多くの人々は、私たちが「贈与された」ということを忘れてしまいがちです。