(※写真はイメージです/PIXTA)

医療法人寿仁会沖縄セントラル病院理事長である大仲良一氏は著書『ひたすら病める人びとのために(上)』のなかで、昭和中期ごろに経験した与論島での医療行為を振り返っています。

昭和時代の与論島…「たった一人の医師」が見たもの

当時の与論島の町民は七二〇〇人でしたが、島にある医療機関は当所のみで、しかも、たった一人の医師でした。我が身一つで頭の先から爪の先まで、すべての疾病を診断・治療し、予防医療までも施さなくてはなりません。責任重大な毎日が始まりました。

 

朝八時の診療開始から夕刻五時までに、一日約二〇〇人の外来診療をします。さらに二十数人の病棟入院患者の管理を終えてから、今度は夕刻から手術が待っています。

 

その上、夜間の往診に出かけ五、六軒回ってきますと、帰るのは夜の一一時、一二時です。全く息つく暇のない日々の連続でした。風邪やインフルエンザの流行時は、一晩に十数軒も回ります。

 

疲れ果てて帰院の頃は、東の空がほんのりと明るんでくる頃でした。また、全島至る所に舗装道路はなく、十数年も乗り回している往診用の車がありましたが、窓ガラスは割れ、車体の床底は穴があき、水溜まりのでこぼこ道では泥水が噴き上げられ、横殴りの雨の日は車内で傘を差しながらの往診でした。

 

東京から久留米に行ったときも、えらい田舎に来たものだなあと思いましたが、それどころの比ではありませんでした。とてもとても常識では律することのできない、文明国日本の一面でした。しかし、T運転手も同乗のK看護婦も、「これぞ島の人々の業ですよ」と、笑顔で応えてくれました。

 

診療所には、一応診察用具はちゃんとそろっていました。ただ、麻酔器がないことには閉口しました。ですから、麻酔をするにしても手術をするにしても、局所麻酔しかできませんでした。手術も同様です。そういう状況での診察開始でした。

医療機器が不十分な中、与論島で重大交通事故が発生

ある朝のこと、信号機が一つもないけれども、車の数も少ないこの島で、五十代の男性がトラックにひかれるという初めての大きな交通事故が発生し、被害者の男性が診療所に運び込まれてきました。

 

全身打撲で意識は朦朧としておりました。神経症状から、明らかに頭蓋内の出血が疑われました。しかしながら、残念なことに精密検査ができる機器がなく、近隣の沖おきの永良部島に問い合わせましたが、そちらでも緊急な対応は不可能との返信が来ました。

 

患者の容体は刻一刻と悪化の一途をたどり、このまま放っておけば死を待つのみという状態でした。藁をも掴つかむ思いで、先輩が勤めていた『沖縄赤十字病院』に問い合わせたところ、肝心要の脳外科医がいないということでした。

 

「それでは私が執刀します」と伝えると、「それなら麻酔医を待機させておきましょう」との返事をいただきました。患者の搬送手段として、琉球政府に連絡しますと、沖縄駐留の米軍航空隊に回されました。

 

緊急状況を説明し、搬送をお願いしたところ、「米軍のヘリコプターは緊急時はどこにでも飛んでいきます。洋上であろうと、島であろうと、どんどん飛んでいきます」ということで、「ああ、よかった」と思って米軍のヘリコプターを頼みましたら、「いろいろ手続きがある」と言われました。

 

沖縄県内ならどこにでもすぐに行けるけれど、与論島は管轄外だというのです。その頃、沖縄は米軍の管轄下にあり、与論島は日本の管轄内にあったのです。

 

いろいろと手続きの上、ようやく許可が下りて、間もなく大型ヘリコプターが飛来して、茶花小学校に着陸しました。

 

事故発生から十数時間が経過しており、患者さんの意識レベルもかなり落ちている状況でしたが、患者とともにドクターとチーフナースも同乗するように指示され、那覇航空基地へ向かいました。

 

赤十字病院に搬送され、手術の準備をと思いましたが、意識レベルが落ち、血圧も低下しており、「もう麻酔をかけられる状況じゃありません」と言われました。結局、手術前に心肺停止状態に陥り、間もなく息を引き取られました。

 

もう、夜の九時を過ぎていました。致し方ないこととはいえ、患者さんを救えなかったという思いから脱力感がありましたが、ご遺体をご家族のもとにお返ししなくてはと思い、米軍に交渉して、ヘリで与論島まで送ってくれるように頼みますと、「緊急時はどこへでも飛ぶが、それ以外はだめです」との返答でした。

 

与論島から沖縄まで飛んでくるときには、私とナースの二人には、米軍より、パスポートなしの不法入国者ということで、四八時間に限り滞在を許可するという特別の計らいを受けていました。

 

しかし、さっさと戻らないと期限切れになってしまいます。

 

米軍に断られて今度は琉球警察に掛け合いますと、陸路で北部運天港まで搬送し、琉球警察の警備艇で日本と琉球の洋上の境界二八度線上にて、鹿児島警察の警備船に遺体を引き渡すならという了解のもとで出航できました。

 

洋上で琉球警察の責任者と交渉の上、警備艇を与論島の茶花港まで運航する許可が得られました。

 

港に着いたときには、島を出てから翌日の夜になっていましたが、多くの町民が出迎えてくださっていました。その中、船から搬出されたご遺体を親族にお渡しすることができました。できれば、一命を取り留め、元気になって戻ることができればさらに良かったのですが、ご遺体で戻すしかなかったことを無念に思いました。

 

医療機器がそろっていれば救えるかもしれない命を、何ともしてあげられなかった。

 

この思いは、後年世界のさまざまな医療の発展途上国を訪問し、医療機器の不十分さを見るたびに、支援の手を惜しまなかった私の原点になっています。

 

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大仲良一

 

沖縄県立糸満高校卒。
1935(昭和10)年沖縄県糸満市生まれ。
1955(昭和30)年日本大学教養学部修了。
1963(昭和38)年久留米大学医学部卒業。
1968(昭和43)年久留米大学医学部大学院卒業。宮崎県立日南病院脳神経外科医長。
1973(昭和48)年沖縄中央脳神経外科院長。
1978(昭和53)年沖縄キリスト教短期大学理事。沖縄セントラル病院病院長。
1994(平成6)年医療法人寿仁会理事長。

※本記事は幻冬舎ゴールドライフオンラインの連載の書籍『ひたすら病める人びとのために(上)』(幻冬舎MC)より一部を抜粋したものです。最新の法令等には対応していない場合がございますので、あらかじめご了承ください。

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