今風に言えば「地方の老舗企業のお坊ちゃん」
渋沢栄一は、1840(天保11)年2月13日に、現在の埼玉県深谷市血洗島に生まれました。ちょうど江戸時代末期、第12代将軍・徳川家慶の時代でした。
会社を数多く立ち上げた渋沢さんは、「お金持ちのお坊ちゃんなのでは?」と思っていた僕ですが、やはりそうでした。実際は農家で生まれた「お坊ちゃん」でした。
ただ田畑を耕すだけの農家ではありません。麦作や養蚕とともに、藍問屋業も手掛けていたそうです。こうした農民は、「在郷商人」とも言われています。今で言えば、地方の老舗企業のお坊ちゃんでしょうか。この在郷商人の中から、土佐の坂本龍馬も生まれています。
藍問屋業というのは、藍玉(あいだま)の製造販売のことです。藍の葉を仕入れ、それを原材料とした染料の一種をつくります。この藍玉を、上州や信州の染物店に販売して暮らしていました。渋沢家は、商売の才覚が求められる仕事をしていたのです。
渋沢さんは父・渋沢市郎右衛門とともに藍葉を買いに行ったり、藍玉を売りに行ったりしていました。14歳になると、一人で藍葉の買い付けに行けるほどになりました。父親の買い付けの様子を覚えて、年上の農家たちを相手に、「肥料が足りない」「乾燥が十分でない」などと言って藍葉の鑑定を厳しく行っていたそうです。
また、渋沢さんは年功序列といった従来の慣習にはこだわらず、良い藍葉をつくる農家を評価していたと言います。出来栄えを農家同士が競うことで藍葉全体の質が上がり、藍玉もより品質の良いものをつくることができるからです。こうした経験が、若くして渋沢さんの中に商売の基礎を植え付けることになったようです。
教養のあった父親の影響を受けた渋沢さんは、幼い頃から勉強好きで、7歳で『論語』を読んでいたと言われています。さらに、10歳ほど年上で漢学者の従兄・尾高惇忠(おだかあつただ)のもとへ学問を学びに行っていました。漢文を覚え、『論語』をはじめ中国の代表的古典である四書五経を学んだそうです。
このように、きちんとした教育を受けられる環境が渋沢さんの周りには整っていたのです。ちなみに、尾高惇忠が住んでいた深谷市下手計は、渋沢さんの住む血洗島から約1キロほどでした。この道は、渋谷さんが論語を習いに何度も往復した道ということで、今では「論語の道」と呼ばれ、その地域一帯を「論語の里」と呼んでいるそうです。「論語の里」を中心に、渋谷栄一ゆかりの地を巡るツアーも組まれています。
「幕府の理不尽さ」を知った渋沢青年は、倒幕を計画
学びを深め、世の中を知るうちに、渋沢さんは「自分は国のために何ができるのか?」と考えるようになりました。同時に、当時の世の中の制度への疑問を抱きます。武士の家に生まれなかった渋沢さんは、「なぜ武士の家に生まれただけで社会を支配できるのか?」と疑問を持つようになりました。
その思いを強く抱くきっかけとなった出来事があったそうです。体調の悪い父親の代理として、地元の岡部藩の陣屋に行ったときのことです。実は岡部藩から渋沢家に、500両もの御用金を出すように命じられていたのです。
当時17歳だった渋沢さんは、そのときの代官の、人を見下すような偉そうな態度に腹を立てました。御用金は地元藩主のお姫様が嫁ぐために必要なもので、そのお金を渋沢家で肩代わりして出すようにということだったのです。
自分たちが一生懸命働いて得たお金です。幼い頃から藍問屋業の仕事も手伝ってきていたので、お金を稼ぐことの大変さは身をもって体験していました。その大切なお金を、ただ立場が上だからという理由で、何もしていない代官が奪おうとしたのです。渋沢さんが許せない気持ちを強く持つようになるのもわかります。
こうした気持ちから、理不尽な幕藩体制に不満を抱くようになりました。「理不尽」に対する怒りは、渋沢さんが生涯にわたって貫く感情とも言えました。