1858(安政5)年、18歳になった渋沢さんは、尾高惇忠の妹・尾高千代と結婚。その数年後より、深谷から江戸に出て儒学者の海保漁村(かいほぎょそん)の門下生となり、さらなる勉学に励みます。新たな知識を得るほどに、幕藩体制への疑問は増していきました。
同時期には、北辰一刀流の道場へ入門し、剣術修行にも打ち込みます。そのときに、同じ道場に通う勤王志士らとも親しくなったようです。こうして20代前半の渋沢さんは、幕府に対する不満を募らせ尊王攘夷思想に目覚めていきました。
1863(文久3)年、尾高惇忠、その弟の尾高長七郎、従兄の渋沢喜作(きさく)ら69人の同志とともに、23歳の渋沢さんは倒幕を企てます。それは群馬県の高崎城を乗っ取って武器を奪い、軍備を整えたのちに、横浜の外国人居留地を焼き討ちし、長州と手を結んで幕府を倒すというものでした。幕藩体制を覆すような騒動を引き起こすことで、国を変えようと志したのです。
倒幕を考えていた渋沢さんには驚くばかりです。そんな激しい一面があったとは、よく見る本人の写真の表情からは想像できません。幕末という不安定な社会情勢も相まって、坂本龍馬や西郷隆盛と同じように、渋沢青年も国を変えたいという志を持ったのではないかと僕は思います。
「幕府の危険人物」から「幕府の家臣」へまさかの転身
しかし、倒幕計画は実行されませんでした。尾高長七郎が、実行に待ったをかけたと言うのです。尾高長七郎は、京都で見聞きしてきた「天誅組の変」が失敗に終わった顛末を伝え、挙兵すべきではないと仲間を説得し始めました。
渋沢さんはすぐには納得できず、「自分たちは倒幕のための捨て石になってもいい」と、実行へ向けて突っ走ろうとしましたが、最後は自分の考えの甘さを認め、挙兵中止を決断しました。中止を決めると、渋沢さんは渋沢喜作とともに京都を目指しました。自分の目で、京都の現状を確かめに行きたかったのです。
ただし、倒幕を計画するような危険人物にまでなっていた渋沢さんです。謀反人として幕府に捕まる可能性もありました。それを避けるために、まずは親族に迷惑がかからないようにと、渋沢家とは縁を切ったことを装ったそうです。父親に勘当されたということにしました。
実際、父親には倒幕を企てる前に、「国事に奔走するために、家業の農家は継がない」と伝えていました。最初は大反対されましたが、議論の末に父親が折れて、自由に生きることを認めてくれました。
京都へ向かう際、渋沢さんは平岡円四郎という人物を頼りにしたとされています。のちに第15代将軍になる一橋慶喜の家臣でした。一橋家は、将軍家・徳川氏の一族から分立した大名家で、徳川御三卿の一つです。平岡円四郎は今で言う勉強会のような会合を開いていて、渋沢さんもその会合に参加していたため縁があったということです。
江戸時代には移動の自由がなく、人の往来を監視する関所を通らなければなりません。そこで関所を突破するために、渋沢さんと渋沢喜作は「平岡円四郎家来」という手形を用意してもらったそうです。この手形のおかげで、無事京都へ行くことができました。
京都に赴任していた平岡円四郎は、渋沢さんに一橋慶喜の家来になることを提案します。手形を用意して助けてもらった恩がありました。それに、「八月十八日の政変」直後でもあったため、京都で尊王攘夷志士としての活動を行うのは難しくなっていました。
すでに目を付けられていた渋沢さんが、幕府の手から逃れて生き延びるためには、この提案を受け入れて一橋家に仕えるしか選択肢がありませんでした。こうして渋沢さんは、少し前まで倒すべき相手だと思っていた徳川家のために、働くことになりました。
まさか倒幕まで計画した渋沢さんが、徳川家に仕えることになるとは…。青天の霹靂(へきれき)とはこういうことを言うのだと思います。
ビビる大木