(※写真はイメージです/PIXTA)

土方歳三といえば、誰もが知っている幕末に活躍した人物です。幕末に京都を震え上がらせた新選組の副長を務め、薩摩、長州など、攘夷派の志士を手あたり次第に暗殺しました。風雲急を告げる京都市中において、数々の修羅場をくぐり抜け、鳥羽伏見の戦いから戊辰戦争まで、転戦を繰り返した土方歳三の生きざまに、想いを寄せる歴史ファンも多いようです。あまり現場に赴かず、後方から指揮する新選組局長近藤勇と違って、副長の土方歳三は隊のナンバー2でありながら、常に戦いの最前線に身を置いていました。多くの敵と刃を交えながらも、生きのびたことを見ても、土方の剣の腕はかなりのものだったようです。

製造中止になった理由

石田散薬は、1700年代の宝永年間から1948年(昭和23年)の薬事法改正まで、約250年間にわたって製造・販売されていました。また、土方家に伝わる資料によると、江戸御府内(江戸市中)以外の得意先だけで、400軒以上あると記されています。当然、後府内にも得意先があったはずですから、その販売網はかなりのものです。

 

これほど売れていた石田散薬も、改正された薬事法の基準をクリアできないために、製造中止となりました。ちなみに、昭和23年の薬事法改正をクリアできなかったのは、石田散薬だけではありません。厚生省(当時)は、黒焼きの民間薬全ての薬効を認めなかったのです。

 

そのため、多くの民間薬が、昭和23年以降姿を消すことになりました。薬事法はクリアできませんでしたが、それでも、「石田散薬しか飲まない」という根強いファンもいたようです。当時の石田散薬にどれほどの効能があったのか、今となっては知る由もありませんが、2000年代に入ってから、石田散薬を再現しようという試みがなされています。日野市郷土博物館と土方歳三資料館が協力して、東京薬科大学監修のもと、石田散薬の再現プロジェクトが実施されています。

 

薬科大学が監修しているので、単なる土方歳三ファンや、歴史ファンが実施するイベントとは、根本的に違います。再現された石田散薬の効能がどれほどのものか、土方ファンならずとも気になるところです。

土方家の親戚が作っていた散薬もある

ちなみに、土方家の親戚の佐藤彦五郎家には、石田散薬と同じ原料と製法で作った、「虚労散薬」という薬がありました。虚労散薬は、石田散薬とは違って白湯で飲みますが、肺病の薬として用いられていたので、労咳(結核)を患っていた新選組隊士沖田総司も、おそらく飲んでいたのではないでしょうか。しかし、新選組一番の剣の遣い手といわれた沖田総司も、労咳には勝てませんでした。

 

ちなみに、虚労散薬も昭和23年の薬事法改正に伴う製造販売許可申請をクリアできず、残念ながら製造中止となりました。

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