大スターの前でも臆しない
「総理大臣でも隣のおじさんでも幼稚園児でも、誰でも自分の家族だと思って診ればいい」というのが、向井さんの考えでした。だから、天下の大スターを前にしても、少しも臆することなく治療ができたのでしょう。石原裕次郎の症状について説明を求められ、病室にいた男性に話をしながら、「どこかで見たことがあるなぁ」と思っていた向井さん。あとで看護師に聞いたところ、「あの人、渡哲也ですよ」と教えてくれたそうです。テレビを見る暇もないほど忙しい向井さんは、渡哲也と面と向かって話をしても、誰なのかよくわからなかったようです。
石原裕次郎は、1981年4月に背中と胸の痛みを訴え、慶応病院で診察した結果、「解離性大動脈瘤」であることがわかりました。石原裕次郎は、持ち前の強運でこの難局を見事に乗り切ります。生還率3%という難しい手術も無事成功し、「タフガイ・裕次郎の復活」に日本中が沸き立ちました。石原裕次郎の回復ぶりは、連日のように報道されたので、病院の屋上からガウンを着て、手を振る姿を覚えている方も多いでしょう。しかし、その後石原裕次郎は肝性脳症という病気を発症し、心臓手術から6年たった1987年7月、残念なことに52歳という若さで亡くなりました。
宇宙を目指すきっかけ
石原裕次郎の心臓執刀から2年後の1983年、向井千秋さんは旧宇宙開発事業団の宇宙飛行士募集に応募し、1985年に宇宙飛行士に選出されました。彼女と同期で選出された宇宙飛行士に、毛利衛さん、土井隆雄さんがいます。1986年、向井さんは病理医の向井万起男さんと結婚しましたが、宇宙飛行士の夢は捨てませんでした。
1994年、スペースシャトル・コロンビア号に搭乗し、1998年にはスペースシャトル・ディスカバリー号に搭乗しました。コロンビア号では金魚の宇宙酔いの実験をして話題になり、このミッションで宇宙滞在時間14日17時間55分を樹立し、女性の宇宙最長滞在記録を更新しました。ちなみに、ディスカバリー号に搭乗した際に、「宙がえり 何度もできる 無重力」という短歌の上の句を詠み、これに続く下の句を募集したところ、14万5千首もの応募があったそうです。このエピソードから、女性宇宙飛行士向井千秋さんが、いかに注目されていたかがわかります。