激動の時代を駆け抜けた日本のナイチンゲールの故郷
会津若松は、寛永20年(1643)、保科正之が会津藩主となって以降、改姓して会津松平家となって治めていた地です。一時は財政破綻、不正、厳しい年貢に不満を持った農民による一揆など、混乱極まる事態もありましたが、藩政改革で乗り切り、幕末まで続いた名門でもあります。
弘化2年(1845)、名君と呼ばれた第8代藩主・松平容敬のときに、八重は生まれました。
彼女は会津藩の砲術師範であった山本家の三女として生まれ、砲術の勉強に余念がありませんでした。『会津戊辰戦争』の著者として知られる平石弁蔵に宛てた手紙には「私は13歳のとき、4斗俵を4回も肩に上げ下げしました」と自ら書いて自慢するほどですから、男勝りで勝ち気の性格だったことは想像できますね。
やがて八重は、実兄の山本覚馬が会津に招いた蘭学・舎密術(理化学)の洋学者・川崎尚之助と結婚します。婚姻をした年月日は、残念ながら残されていないのですが、元治元年(1864)ごろと推定されています。これが正しければ、当時の八重は19歳。きっと幸せな結婚生活を夢見ていたのではないでしょうか。
しかし運命というのは残酷なもので、結婚してからわずか4年後、会津戦争にまきこまれていくのです。
八重が結婚したと思われる元治元年。京都では激動の時代が幕を開けました。禁門の変に始まり、やがて薩摩藩と長州藩が同盟を結ぶと、国内は打倒・徳川幕府という流れに変わってしまいました。鳥羽・伏見の戦いで幕府軍が敗走し、江戸城が無血開城され徳川政権は終焉を迎えます。しかし、新政府軍となった薩摩・長州両藩に対する東北諸藩の反感は根強く、やがて会津・戊辰戦争へと戦火は拡大されていくのです。
西洋式の新型の銃や大砲で攻めてくる新政府軍に対して、会津藩は刀や槍が中心でした。次第に劣勢となった会津藩は、鶴ヶ城(会津若松城・史跡名称は若松城)に籠城。八重もこれに従い、断髪・男装して家芸であった砲術を用いて奮戦したといいます。
現存する鶴ヶ城は昭和40年(1965)、鉄筋コンクリート造にて外観復興再建されたもの【写真1】。その内部は若松城天守閣郷土博物館として公開。若き日の八重が活躍した会津戦争の資料なども見ることができます。また、城の南西には、八重の生家の碑がありますので、若き日の八重が育った街並みが見ることができます。
「ならぬことはならぬものです」…会津藩特有の教え
さて、この八重が育った土壌には、会津藩特有の教えがあることをご存知でしょうか?
会津藩では、武士を育成するにあたり、日新館という藩校がありました。享和3年(1803)、教育目標を人材の育成と掲げた日新館では、上士以上の藩士の子弟であれば入学が義務付けられていました。そこで掲げられたのは「什の掟」と呼ばれるもの。最後の「ならぬことはならぬものです」というくだりは、すべての項目に共通していました。
この教えが会津藩士の間では広く浸透していたこともあり、理不尽な新政府軍に対して一矢報いる戦いを挑んだのでしょう。幕末の悲劇で知られた白虎隊は飯森山から戦火に燃える鶴ヶ城を見て会津藩の敗戦を知り、集団自決をしましたが、彼らもまた、この日新館で学んだ生徒たちでした。
現在ある日新館は、消失したものを昭和62年(1987)に会津若松市の北部に再現したもの【写真2】【写真3】。当時は鶴ヶ城の西側に位置しており、現存するのは天文台跡のみとなっています。いち早く天文学を取り入れた会津藩の先進的な考え方が残された史跡といえるでしょう。
また会津戦争には、京都から敗走してきた幕府方の新選組も参戦。会津若松市北部の母成峠で新政府軍と土方歳三らが対峙しました。山中には当時築かれた石の塹壕が残されており、激戦の様子がうかがえます。会津にたどり着く前に傷を負っていた土方は、東山温泉で湯治。今でも彼が浸かった湯が、東山温泉には残されています。
同じく新選組の近藤勇や斎藤一の墓所、当時の激しい銃撃戦を物語る長命寺にある塀の弾痕など、幕末の歴史を知るための史跡は、会津若松市に数多く残されています【写真4】。
日本のナイチンゲールと呼ばれた新島八重が生きた会津若松の地を旅することで、彼女がやがて目指した医療の世界への思いを知ることもまた、志を抱いてその道へと進む人たちにはおすすめの旅路といえるかもしれませんね。