東日本大震災が100年企業づくりの原動力
福島同友会は震災当日(2011年3月11日)、安孫子健一理事長(現・顧問)が業界の会合で仙台に、豆腐谷栄二事務局長(現・参与)は出先の秋田で足止めされたため、増子勉専務理事(当時、福島カラー印刷会長)を含む三役が、福島県郡山市の本部に集合できたのは3月14日になってからだった。
3人はまず、大震災対策本部の設置と同友会行事の当面の中止を決め、可能な限り会員への告知を進めるとともに、活動の拠点となる本部、福島、会津の3事務局の復旧活動に当たることを決めた。もう一つの拠点、太平洋側浜通りにあるいわき市の事務所は一時的に閉鎖することにした。
この間もFAXや「e.doyu」※1を用いて会員の安否確認を続ける一方、「苦境に負けず、いまこそ中小企業家魂を発揮し、企業存続に向け全力を尽くしましょう」という理事長声明をはじめ、激励や連帯、企業復興を呼びかける声明、阪神・淡路大震災のおりに兵庫同友会がまとめた資料集を基にした緊急時の対応策などを次々と会員向けに送信した。
※1 中小企業家同友会全国協議会の運用する、同友会会員間の情報共有の場であるグループウェア。
この兵庫同友会から送られてきた緊急時の対応策がのちのち役に立つ。しかしその間も、12日の福島第1原発が1号機を皮切りに、3つの原子炉建屋が次々と水素爆発を起こし、半径20キロ圏内の住民に避難指示、同20~30キロ圏内の住民には屋内退避指示が出た。被曝を恐れて、数日のうちに多くの県民が自主避難を含め県内外へ脱出し、その中には会員や社員も多数含まれていた。
「このままでは福島の同友会は崩壊する。いや福島県そのものがなくなってしまうかもしれない」。そうした悲壮な声さえ聞こえてきて、安孫子氏以下の同友会幹部は危機感を募らせた。なかでも福島原発の立地地域と重なる浜通り北部の相双地区会員には県内外に避難していて連絡がすぐには取れない人も少なくなく、避難所にいて会社の復興どころではない人もいた。増子氏が続ける。
「そのころ、中同協から支援のためのお金を送ると言ってきた。役員会で誰に、どういう形で、いくら配るかを論議した。そこで一番苦しい情況にある相双地区の会員たちにまず配ろう。彼らが組織から見捨てられたと思わないようにと。金額は一律10万円とし、(会員間の連帯の証しとして)役員が出向いて手渡しすることを決めたのです」
3月23日、安孫子氏や増子氏が混乱状態の続いている現地に入り、連絡のつく会員すべてに手渡しした。
南相馬市原町の本店のほか、近隣に6店舗を展開する北洋舎クリーニングの二代目経営者で、震災直後に相双地区会長を務めた高橋美加子氏は「当時、銀行のATMどころか、銀行そのものが閉まっていて、現金はとても貴重だった。だから手渡されたときは、涙が出るほど嬉しかったですね」とそのときの感激を語る。
「弊社は私の両親が戦後、樺太から引き揚げてきて開業したのだが、会社を継ぐ者がいないので、どこかの時点で会社を畳むしかないと私は考えていました。
しかし津波で母親を亡くした女性が、母親が身につけていた着物を何とか綺麗にしてほしいと頼んできたことや、近くにクリーニング店がない、何とか早く店を開けてくれと懇願されるお客様の声などが相次ぎ、地域で唯一のクリーニング店を閉じてはいけないと気付かされました。
同友会の会合でただ唱和していただけの『3つの目的』などの持つ意味が、震災を経験することでようやく真に理解できたのです。会社は自分だけのものではない。皆が働く場所だし、地域のものでもある。なくなると地域の人が困るものだということが」
緊急避難準備地域に指定された直後、南相馬市はそれまでの7万余りの人口が1万人を切り、さながらゴーストタウンと化したが、高橋氏は3月中には避難先から戻り、4月2日には一部業務を再開した。県内外に避難した社員も高橋氏の動きを知ると、次々と戻ってきてくれたという。
そうしたこともあり、高橋氏は仮に自分がいなくなっても北洋舎クリーニングを100年企業として続けたい、続けてほしいと、いま心底思っている。後継者づくり、働きやすい環境づくりなど、そのための体制づくりもすでに緒についたと、元気に満ちた口調で語る。