李克強首相「意図的な読み違い」だったのか?
李克強首相は全人代初日の政府活動(工作)報告の「農村の貧困問題」(連載『中国の例に見る「途上国の経済成長と貧困削減・所得分配の関係」』参照)に関する部分で、「大規模な脱貧を発生させない」としたが、新華社報道などは「脱貧(トゥオピン)(貧困からの脱却)」を「返貧(ファンピン)(貧困に戻る)」と修正、一般に李氏の原稿読み間違いだったとみられている。
しかし昨年来、脱貧を成し遂げたとする習氏に対し、李氏は笑話だと言わんばかりの発言を繰り返している。
実際、11月に党メディアが832の貧困県すべてが貧困の「帽子」を脱いだと宣言したが、しばらくの間、李氏率いる国務院(政府)が正式にこれを認めた節はなかった(その後、本年4月にようやく国務院新聞弁公室は「人類の貧困削減についての中国の実践」と題する白皮書を発表し、その中で2020年末に脱貧任務が完了したと宣言)。読み間違いは意図的なものだったとの憶測が絶えない。
李氏の報告での第14次規画説明のトーンから、習氏との微妙な違いが窺える。
習氏が様々な場での規画説明で最も強調してきた点は、科学技術(科技)分野を強化し対外依存を減らす「科技自立自強」と、輸出ではなく内需主導での成長を進める「国内大循環」だ。
李氏はこうした面への言及を抑え、むしろ「市場主体の活力重視、特に中小零細企業への支援」「民営企業が発展する環境の改善」「より高い水準の開放型経済新体制の構築」、そして「放管服」の深化を強調。
「放管服」は「放」、法律根拠のない、あるいは部門間で重複している行政権を整理・委譲すること(簡政放権)、「管」、政府の監督機能を革新的に改革し強化すること、「服」、政府の市場への余計な介入を止め、行政コスト削減などを通じて、市場主体に対する政府サービス(服務)を改善することを指す(2015年の国務院会議で初めて提起)。
李氏は、2021年3月両会後の記者会見でも、次の点で独自性を見せたと注目されている※1。
※1 2021年3月12日付仏国際広播電台(rfi)。
①王岐山氏とは対照的に、李氏が2時間の記者会見で習氏に言及したのは、「昨年、習近平同志を核心とする党中央の指導結束の下」の1回のみ。
②新型コロナについて、抑え込み勝利を高らかに宣伝する党と異なり、「複雑な科学的問題」「各国との協力、一層の研究が必要」など、客観的で冷静な受け答えだった。
③対米関係では米国批判を展開せず、協力・対話深化の重要性を強調。
④中国経済は世界経済と深く一体化(融入)、「你(あなた)中有我、我中有你」の関係にあり、対外的に門を閉ざすと出口はなくなる旨強調。
英語排除の動きににじむ「排外的雰囲気」
両会中、ある政協委員※2が英語を義務教育の主要科目や入試必須科目からはずし、その時間をもっと思考能力を養う科目に振り向けること、さらに義務教育過程の学生が様々な非公式の外国語試験を受けることを禁止すべきと提案、特に子供の教育を抱える親が注目した。
※2 科技・文教知識人を中心とし、共産党の指導下にある政党、九三学社の中央委員。
同委員によると、現在英語教育に費やされている時間は全体の10%に及ぶが、卒業後に英語を活用している者は10%に満たず教育効果が低く、さらに近年は人工知能の翻訳の質も上がっている。英語も含め外国語全般に関するこうした動きをどうみるべきか。深読みすると、外交面で保守的色彩を強め(次回記事にて詳述)、経済面で国際経済と切り離した消費主導の「国内大循環」が強調されている延長線で、排外的雰囲気が強まっていることの一環との見方ができる。
ただ提案に対し、ネット上では「世界の軌道から脱線した(脱軌)考え方」「中国語が世界的に通用する言語でない中で、教育資源の配分アンバランスの問題を議論するのは不公平な話」など、総じて否定的、懐疑的な意見が多い。
地元報道は概ね「英語人材の育成は必要な事。2,3年前からネット上で、2021年の入試科目から英語がなくなる、あるいは23年からその比重が下がるなど噂があるが、入試科目の変更は非常に複雑で調整に時間を要する。英語教師の処遇をどうするのかという問題もあり、すぐに実施されることはない」としている。
両会では決議されず提案だけで終わるものが多くあり、これもそのひとつだったと思われるが、こうした提案が出てくること自体が何らかの風潮、雰囲気を示している。他方で浙江省委書記が両会中、中共国際電視台のインタビューに通訳を交えず中国語で話した後、(プロンプターを見て読み上げただけのようだが)自ら英語で浙江の紹介をしたことが、上記と相反するシグナルとして話題になった。
近年、習政権下で両会中の代表委員への統制が強化されていると言われているが、そのほころびが出たのかもしれない。書記の言動に対しては、ネット上で「80、90年代に教育を受けた役人が英語を話すことはもはや普通」とする声がある一方、「世界に母国語で発信したくないのか」との非難もある。