「社員は不安のどん底」……。1980年の創業以来、石油ボイラーの販売を手掛けてきた長府工産。市場の変化に耐えられず、業績は低迷、退職者も続出していた。倒産寸前の同社が立て直しのために呼んだのは、「私は退きます」と、2年ほど前に会社を去っていた元専務の伊奈紀道氏。同氏の経営手腕はいかほどだったのか。ノンフィクション作家である神山典士が取材した。

あの人に社長を頼むようじゃこの会社は終わったな

2007年4月に伊奈が社長として戻って以降も、長府工産の亀浜工場は依然として厳しい経営環境にあった。伊奈が来たことと前後して、「営業部長」の名刺を持っていたコンサルタントのM氏の姿はなくなった。

 

Mに同調していた黒川の上司も、時を同じくして退職していった。その直前、黒川はこの上司に呼び出されてこう言われた。「この会社はもうだめだぞ。伊奈さんに社長を頼むようじゃこの会社は終わったな」、と。黒川はこう振り返る。

 

「今でもはっきりと覚えています。この社長だとだめだから、黒川さんも辞めることを考えたほうがいいよと言われました。その後その上司はすぐに辞めて、私はそのタイミングで会社の指示で現場から事務所にあがったんです。事務所がどうもこうもならんようになって、ちょっと人員を増やさないといけなくなった。もともと現場のことだけをやっていたのに、事務方の仕事をやるようになりました」

 

黒川には、それまでの「班長」に代わって「主任」の肩書がついた。その後、退職した上司の右腕だった人も辞めて、組織はぼろぼろだった。品質管理の人間が製造部長となったが、当初は慣れないからうまく仕事は回せない。

 

結局工場内で製造現場のことを分かっているのは黒川だけだった。黒川にしても、事務方が担当する資材の調達や顧客との交渉は、誰に教えてもらうこともなくひたすら実践で身につけていくしかない。その状態が1~2年続いた。

 

黒川はあまりのハードワークで毎日午前様、土日もない状況だった。このときは伊奈ももどかしかったはずだ。もとより営業畑の伊奈は、製造現場のことは分からない。そこは前社長の領域だったから、口を出したこともなかった。黒川が振り返る。

 

「伊奈さんが社長として来られた当初は、あまり接点はなかったです。もちろん声は掛けていただきました。伊奈さんも工場が大変だと分かっていましたから、頑張れよっていう感じで帰りがけに声を掛けていただくとか。私もまだ自分の仕事がよく分かってない状況だったので、それに答えようもないところもあって。最初はそういう関係でした」

 

だがこの時、黒川たち工場に残った工員にとって、唯一安心できたことがある。それは、伊奈が明確に、「工場の雇用を守ることが一番」と表明してくれていたことだ。経営の常識で考えると、工場がこの状態だったら売却するとかM&Aをしかけて他社に譲渡するとか、経営改善を目指すやり方はいくつかある。

 

けれど伊奈は、「やっぱり雇用が中心。事業を中心に考える」と黒川たちの前で明言してくれたのだ。伊奈はこう言った。

 

「もちろんいろいろなシナリオはあると思うけれど、今この工場で働いている人の幸せ、職業上の幸せを第一義的に考えよう。その中で自分たちでできることを高めあって、それで勝負しようや」

 

だから黒川も、「当然工場の再生なんてやったことがないから失敗もあります。でもめげずに成功するまでやりましょうよと言えるような、そういう感じになりました」と振り返る。もちろん工場をめぐる経営環境は厳しかった。

 

石油給湯機の市場はどんどん縮小し、物づくり部門は長府工産全体の数パーセントしか売上がない。そこに全社員の4割がぶら下がっていた。常識的に考えれば、リストラがあっても仕方ない状況だった。

 

けれど伊奈は、きちんとメーカーとして生き残っていくという方針を就任当初から打ち出して、「新規事業への予算とか工場維持の費用とかは心配するな、可能性があるものだったらなんにでもチャレンジしろ」と、ずっと言い続けたのだ。

 

 

神山 典士

ノンフィクション作家

 

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社員の幸せを創る経営

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神山 典士、伊奈 紀道

幻冬舎MC

一生懸命働くことは楽しい。 みんなが幸せになれる。一人ひとりが輝ける。 そんな会社をつくろうじゃないか。 長い低迷期が続いていた会社に舞い戻り、会社設立以来最高額の売上を達成した男のメッセージとは――。 ボイ…

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