精神分析医の堀口尚夫氏は書籍『天才の軌跡』の中で、フロイトの生い立ちを語りながら、独自の見解を述べている。

父と母との「幸福な日々」からの訣別、その後

彼は自由連想法を自己にも適用し、自身の幼児期の出来事を映像的記憶として思い出すことに成功しているが、筆者は、彼の過去全般にわたる憧憬は、彼自身の幼児期に対するこのような執着の拡大されたものではないかと考える。

 

オットー・ランクの『英雄誕生の神話』に寄せた文(ファミリー・ロマンス)の中で、フロイトは両親から個人として独立していくのは非常な苦痛をもたらすと述べ、また、父が最も高貴な強い人であり、母が最も貴く美しい人であると思えた幸福な日々からの訣別が貴種空想のもとになっているとしているのも、彼の過去への憧憬と一致している。

 

逆に、未来と現在についてフロイトはどのように感じていたのであろうか。彼のフリースへの手紙を読むと彼は生きるということについて、悲観的であったことがよくわかる。

 

例を挙げると、一八九三年十一月二十七日の手紙では「みじめに長生きすることは恩恵だと思いますか」と尋ね、一八九三年三月四日の手紙では「また、以前のように、今朝若死にしたいと思った」と述べ、一八九六年七月十五日の手紙では、重態であった父について「私は彼自身望んでいる報われるべき死についてねたむ気持ちはありません」と書いている。また、彼は「私の父と異腹の兄は八十一才まで生きたので、私の将来の見通しは暗い」(長生きするのはいやだ)と言ったともいわれている。

 

彼の母が九十五才で亡くなり、おくやみの手紙がきた時も、彼は人々が祝わないのを不思議に思うといった意味のことを言っている。彼は生きることを忌むだけでなく、死に魅せられていたとも言える。このことは、彼がミュンヘンでユングらとの会合があった時、フロイトは気を失ったことがあるが、気がついた直後、彼は「死ぬということは何と甘美であることだろうか」と言ったという事実に明確に表れている。

 

このエピソードは一九一二年十一月のことであるが、その前一九〇九年九月にもブレーメンでユングにワインを飲ませることに成功したあと(ユングは禁酒主義者であった)、同様に気を失っている。

 

この二つのエピソードはフロイト自身の解釈によると、フロイトが母親から愛を分けなければならなかった憎い弟、ジュリアスが幼児期に死亡した事実と関係があると説明している。この解釈をわかりやすくすると、ユング(十九才年下)は死亡した弟を象徴し、彼が勝つ(ミュンヘンではユングの非難を論破している)ことは、弟が死んでフロイトが潜在意識下に勝ったと思ったことのくり返しなのであるが、勝つことはフロイトが生きのびなければならないということになるので、勝った意味がない。むしろ甘美な死(気絶に象徴されている)の方がよいという意味である。

心の最深層に触れるのを恐れていたのではないか?

これらのことは、フロイトが自己分析で到達した深層、エディプス・コンプレックスのさらに奥深くには死による母親との再融合を望んでいるもの(オットー・ランクの胎内回帰願望)がひそんでいたのではないかと考えさせられる。

 

彼がエディプス・コンプレックスを説きながら、エディプス王の完全な分析をしなかった(彼はエディプス王の足の傷について分析しているが、自分の目を刺す行為についての言及はない)のも、彼は自身の心の最深層に触れるのを恐れていたためではないかとも思われる。そして彼がコカインの使用法として目の麻酔を示唆し、犬の眼球の摘出実験を手伝っているのも、彼の潜在意識中に視覚に対するうらみ(自身と母親が異なった二つの個体であることを意識させる器官としての目に対する)と関連しているのではないだろうか。

 

また、オットー・ランクとの離別も、出産外傷説が、フロイト自身の最も根深い葛藤に触れることが一つの原因ではなかったかとも考えられる。自身の死への誘惑を明確に感じていたフロイトは、これを説明するものとして死の本能という仮説を提案している。そして死の本能の機能は生物がもとの無機物の状態にもどることによって得られる緊張のない世界にもどることにあるとした。

 

この説には少し無理があるようで、フロイトの弟子たちもついてゆくことができなかったらしいが、これもまた、フロイトが無意識的に彼の母に対する愛着の強さを知ることを避けていたことと関連するのではないかと考えられる。言い換えると、この仮説は先に述べたように、死が潜在意識では母親との再融合を意味するという説を受け入れることができなかったために作られた仮説であると言えるかもしれない。

 

このような死への強い誘惑にもかかわらず、フロイトは、それに対して敢然と闘っている。一九二三年四月の終わりに彼は耳鼻科の医師に口腔内の白斑の診察を受け、その医師に手術を勧められるとすぐ癌であることを察し、苦しんで死ぬようなら「見苦しくなくこの世から消え去ること」を助けてくれないかと頼んでいる。

 

しかし彼はこの手術以来一九三九年に八十三才で死亡するまでに三十三回の手術に耐え、この間かなりの量の著作をものにしている。一九三九年九月には癌は進行し頬をやぶり、化膿がひどかったという。そして九月二十一日に彼は主治医であったシュールに生を終えることを助けてくれと頼み、モルヒネの注射を受け翌々日昏睡のうちに死去している。

 

フロイトの遺体は火葬されたあと、彼の患者であったナポレオンの弟ルチアン・ボナパルテの孫娘である、マリー・ボナパルテから生前に贈られ、大変気に入っていた古代ギリシャのつぼの中に入れられ埋葬された。つぼが子宮の象徴であると解釈すれば、彼の潜在意識の願望は満たされたと言えるかもしれない。

 

参考文献
E.Jones, Thel ife and work of Sigmund Freud(Basic Books, inc)
S.Freud,An autobiographica lstudy(Translation to English by James Strachey,The Morton library)
The complete letters of Sigmund Freud to Wilhelm Fliess 1887~1904 (Translated and Edited by Jeffrey Moussaief fMasson,The Belknap Press of Harvard University Press)
ピーター・ゲイ『フロイト』鈴木晶訳(みすず書房)
 

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堀口 尚夫

精神分析医(American Institute For Psychianalysis, 1980年9月)
精神科専門医(The American Board Of Psychiatry And Neurology, 1979年4月)
ニューヨーク州医師(1977年9月)

 

1943年生まれ。1968年金沢大学医学部卒業、医師免許取得、金沢大学付属病院精神科入局。1972年7月~1973年6月St. Mary's Hospital Rochester N.Y.インターン、1973年7月~1976年6月Manhattann Psychiatric Center精神科レジデント、1976年7月~1977年6月Mount Sinai Hospital精神科フェロー、 以降、N.Y.州立South Beach Psychiatric Center、N.Y.州立Kings Country Hospitalにて勤務。 1987年よりニューヨーク州立大学Downstate Medical Center 助教授。1996年帰国。現在大阪府にて開業。著書『父親像の歴史』(叢文社、2002年)、現在『悪の軌跡(仮題)』を執筆中。

 

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本記事は幻冬舎ゴールドライフオンラインの連載の書籍『天才の軌跡』より一部を抜粋したものです。最新の税制・法令等には対応していない場合がございますので、あらかじめご了承ください。

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