「美しい海に飛び込みたい」人間性に根ざす欲求の存在
私たちの住む世界はすでにさまざまな側面で有限性という問題に直面しており、自然・環境・資源に対して大きな負荷をかける奢侈(しゃし)的な消費は物理的にも倫理的にもサステナブルではありません。
しかし、日常的な実用ニーズがすでに満たされてしまった現在の社会において、奢侈的な消費を厳しく戒めれば、それは著しい経済の縮小という「ハードランディング問題」を生み出すことになります。
経済的には緩やかな定常~微成長状態へと移行する軟着陸の状態を維持しつつ、サステナブルな形で、いかに社会を、人が生きるに値すると思えるような真に豊かで瑞々しいものにできるか、ということを考えた場合、「至高性」※1を核において展開される生産と消費が、これからの社会において大きなカギを握ることになります。
※1 「至高体験」の例としては、大聖堂を見て「これまで生きていて良かった」と感じることが挙げられる。大聖堂は、新たに二酸化炭素を出すこともなく、追加で自然資源を消費することもない「資源生産性の高さ」を持つ。
ここに「消費には、他者に関係なく必要なモノと、他者に優越するために必要なモノ、の2種類しかない」※2と言われたときに私たちが抱く違和感の根源があります。
※2 「ドイツ歴史学派」を代表する経済学者ゾンバルト、アメリカの社会学者ヴェブレン、イギリスの経済学者ケインズにより指摘されてきたこと。
というのも、このような至高性に根ざした生産と消費のあり方は、その2項のどちらにも根ざさない、別の種類の欲求に根ざしているからです。その欲求とは「人間性に根ざした衝動」です。
それはたとえば「歌い、踊りたい」という衝動であり、「描き、創造したい」という衝動であり、「草原を疾走したい」という衝動であり、「木漏れ日を全身に浴びたい」という衝動であり、「美しい海に飛び込みたい」という衝動であり、「困難にある弱者に手を差し伸べたい」という衝動であり、「懐かしい人と酒を酌み交わしたい」という衝動であり、「愛しい子供を抱きしめたい」という衝動であり、「何か崇高なものに人生を捧げたい」という衝動です。
これらの欲求は人間性そのもの=ヒューマニティに根ざすもので、その衝動こそが人間を人間ならしめています。しかし、こういった欲求が「実生活で必要なものか」と問われれば、それは「否」ということになります。
一方で、これらの欲求が「奢侈」に接続されるかと問われれば、それもまた「否」ということになります。つまり、こういった「人生を生きるに価するもの」に変えてくれる重大な欲求が、ゾンバルトの指摘にも、ヴェブレンの指摘にも、ケインズの指摘にも含まれていないのです。