こころの状態が社会の進歩を測る唯一の指標
■高原のコンサマトリー経済
私は、主に「消費のあり方」を基軸において考察をすすめながら、私たちの経済活動を、「未来のためにいまを手段化する」というインストルメンタルなものから、「いま、この瞬間の愉悦と充実を追求して生きる」コンサマトリーなものへと転換することを提案しました。
そのような経済のあり方は、必要なものだけを買うというような寂しい消費のあり方ではなく、一方でまた、他者への優越を示すための消費の無間地獄のような奢侈でもない、真に自分と他者の愉悦や官能に直結する、人間的な衝動に基づく活動によって駆動される、と指摘しました。
このような主張は別に筆者のオリジナルではなく、すでに100年以上前からなされていました。ケンブリッジ大学でケインズの指導教官だった哲学教授、ジョージ・エドワード・ムーアは、彼の主著『プリンキピア・エチカ』のなかで、次のような社会ビジョンを提示しています。
「私たちが知っている中で、あるいは想像しうる中で最も価値があると思われるのは、交友から得られる喜びや美しいものを見たときに感じる悦楽にもよく似た、ある種のこころの状態である。
この状態にできるだけ多くの人が至ることを目的にする場合にかぎって、個人的・社会的義務の執行は正当化される。人間の活動に合理的な最終目的を与え、社会の進歩を測る唯一の指標となりうるのは、このような意識の状態なのである。」
ムーアによるこの指摘は、筆者が主張する「インストルメンタルな社会」から「コンサマトリーな社会」への転換という指摘と同じです。第二次産業革命の後期にあって文明化が著しく発展している社会において、ムーアは、あらゆる個人的・社会的営みの目的は、人々をしてコンサマトリーな状況に入らしめることにおかれるべきであり、社会の進歩・発展は、それがどれだけできているかという、ただその一点だけにおいて測られるべきである、と指摘しています。
このムーアの指摘は、GDPという指標がもはや無意味化している一方で、それに代わる新たな「成長を測る指標」を見いだせていない現在の私たちにとって、重大な示唆を与えてくれます。ムーアは、「交友から得られる喜びや美しいものを見たときに感じる悦楽」などに代表される「ある種のこころの状態」に、どれだけ多くの人が至っているか、が「社会の進歩を測る唯一の指標」になると言っています。
そして、全ての個人的・社会的活動は、この状態を実現することを目的とする場合に限って正当化されると言っています。
このムーアの指摘を別の言葉で言い換えれば、それは「文明と技術によって牽引される経済」から「文化とヒューマニティによって牽引される経済」への転換ということです。私たちの高原社会を、より鮮やかに彩ってくれるようなモノやコトを生み出し、それを交換することによって、経済を駆動していくということです。それは「人間性と経済、ヒューマニティとエコノミーが一体化した社会」となるでしょう。