漢字に慣れている日本人だからこそ混乱する!?
欧米の人々からよく、日本人は漢字に慣れているので、中国語の学習は楽だろうと言われるが、なかなかそういうわけにはいかない。同じ漢字でも発音が全く異なる上に、意味も異なる場合が多く、むしろ混乱する要因にもなる。「先生」が別に日本語の「先生」を指すわけではなく、Mr.程度の意味であることはよく知られている。
「老婆」は自分や他人の妻、「花」は日本語と同じ意味もあるが、「花銭」「花時間」といった形で、お金や時間を浪費するというニュアンスで使われることが多い。「読書」は「勉強する」で、日本語の「読書」は「看書」、中国語で「勉強」は「強いる」で、日本語の意味はない。「野菜」は日本語の「野草」を意味し、日本語の「野菜」は「蔬菜」となじみのない単語になる。「顔色」は日本語と同じ意味もあるが、単に「色」を意味することが多い。
あまりよい表現ではないが、日本語の「馬鹿」は「笨蛋(ベンダン)」「傻瓜(シャーグア)」と、これも日本人には全くなじみがない。日本語の「馬鹿」については、中国の「史記秦始皇本紀」に次のような故事があり、そこから由来しているのではないかと言われている。秦王朝で君主を補佐した最高位の丞相趙高が謀反を企み、どの大臣が自分に忠誠を誓うか試すため、秦二世にこれは馬だと言って鹿を献上、秦二世は笑って、群臣にこれは鹿ではないかと問うたところ、ある群臣は馬だと答え、ある群臣は鹿だと答えた。
その後、鹿だと答えた群臣は皆、趙高によって殺されたという故事から、中国語では「指鹿為馬」で「黒を白と言いくるめる」という意味になる。中国語で「馬鹿」は動物の「アカシカ」だ。
似た表現で「馬馬虎虎(マーマーフーフー)」も、日本語からは想像のつかない「いい加減」「まあまあ」といったような意味になる。宋代、いい加減な絵を描く画家が虎の頭を描き終えた後、客人が馬の絵を買いに来ると、虎の頭に馬の胴体を書き足した。長男に問われると「これは虎だ」と答え、次男に問われると「馬だ」と答えた。
その後、狩りに出かけた長男が、他人の馬を虎だと思って打ち殺して弁償させられ、次男は虎を馬だと思い、騎乗しようとして殺されたという故事に基づく。中国語表現の裏にはこうした故事が多く、これを調べるのも面白い。
「アンベイジンサン」「マーシャンタイラン」は誰?
日本人の名前、地名など漢字で表記されているものは、中国語で発音されるので、聞いても、慣れないと、誰、またどこを指しているのかわかりにくい。たとえば、安倍晋三首相は「アンベイジンサン」、麻生太郎副総理は「マーシャンタイラン」、いずれもたまたま、多少日本語の発音に近いようにも聞こえるが、中国語になじみがないと、実際に聞いてそうとわかる人はほとんどいないのではないか。
一般的には、発音は全く異なる場合の方が多いと思っておいた方がよいように思う。欧米人の名前も、その発音から漢字があてられるので、漢字を見ても誰を指しているのか、にわかにはわからない。たとえば、プーチン、オバマ両大統領は、各々「普京」、「奥巴馬」と表記されている。しかし、我々も中国人の名前を日本語読みしているので、お互い様だ。「習近平」「李克強」は各々、中国語発音では「シージンピン」「リーカーチアン」、むしろ、英語表記のXi Jinping, Li Keqiangが拼音に準拠していてわかりやすい。
筆者の経験では、外国人の中国語学習を見ていると、初級段階では、むしろ欧米人の上達の方が早く、したがって簡単な日常会話も、彼らの方がうまくなることが多い、ただ、中級、上級段階になるにつれ、欧米人にとってやはり漢字の壁は大きく、次第に脱落していく者が出てくる。これに対し、日本人の場合は、中上級で、ある程度難しい文章を読むことには、さほどの困難は感じなくなってくる。漢字に慣れているという日本人の優位性を、学習でどう活用するか、ひとつの鍵になる。
ところで、日本での中国の地名の呼び方は一貫性を欠いている。青島、上海の発音は普通話に準拠しているが、北京、広東は広東語読み(普通話ではベイジン、グアンドン)、重慶、瀋陽、吉林は日本語読み、天津は強いて言えば、日本語と普通話の中間だ(普通話ではティエンジン)。広東が広東語読み、また旧満州地域が日本語読みであるのは理解できなくもないが、それだけではすべての説明にはならない。それぞれの歴史的経緯を調べると面白いかもしれない。
※本連載は原則、毎週日曜日に掲載していく予定です。