被災地という現場体験で感じた支援の喜びとは?
危機管理人の朝倉(正司、生産本部、TPS本部本部長)もまた、災害現場で復旧を行った体験がある。彼の支援活動デビューは2007年の新潟県中越沖地震だった。
朝倉は会社生活のうち、前半の十数年間は生産技術部。その後は生産調査部にいた。上司は林南八、豊田(章男)、友山(茂樹)。「みんなめちゃくちゃ厳しくて、ちょっとだけ優しい上司でした」。朝倉は厳しい上司の元で十数年、働いた。
「危機管理を担当する前に生産調査部にいたのですが、通常の仕事のやり方が危機管理みたいなものでした。今はもう残業もできないけれど、当時は『明日の朝までにラインを直しておけ』という世界でした。豊田も友山も南八さんに言われて走り回っていましたね。今、生産調査部は80人ほどいますけれど、当時は20人くらいでしたから、なんでもかんでもやらなければならなかった」
朝倉の話。
─中越沖地震の時は柏崎にあったリケンの工場を復旧してピストンリングを作りました。僕が親方で行ったのはあれが初めてのことでした。
リケンが作っていたピストンリングは自動車のエンジンにも使われていましたが、トヨタの車にはあまり使われていなかった。また、自動車だけではなく、クボタ、ヤンマーが作る産業機械のエンジンにも使われていました。ですから、リケンの支援は一般企業へ支援する先駆けだったと思います。
トヨタの危機管理としてもあの時は転機でした。
復旧の方法は今も昔も生産調査部でやっていたやり方ですよ。作業を平準化して、ムダを省いてラインを引き直す。そうしたら、地震の前よりも生産性が向上するんです。うちとしては当たり前のやり方です。
彼らはまず、周りを見渡してから復旧、支援にとりかかる。
支援に行った時、彼らはまず「周りを見渡す」。すぐに協力工場へ入っていくのではなく、地域全体がどのくらい被災しているか、復旧には何が必要か。たとえば電源車だったら何台持ってくればいいかを考える。水でもウエットティッシュでも、地域全体に配る量を用意する。
朝倉の話。
─僕は阪神大震災も経験はしていますけれど、親方として初めて指揮を執ったのは中越沖地震です。前述の柏崎にあるピストンリング工場へ行きました。あの時は夏でね。暑かった。避難した方々がいる体育館へ行ったらなかも暑くて、みんな汗だくですよ。
それで最初にやったのはシャワーを直すことだった。ガスは来てなかったけれど、シャワーの配管は壊れていなかったから、水は出る。しかし、お年寄りとか女性にずっと水を浴びろとは言えないですよ。それで、プロパンガスの火力を使ってシャワーからお湯を出したら、みんないちばん喜んでくれました。
支援の喜びってそういうものですよ。涙を流して、「ありがとう」と言われることなんて、人生でそうそうあるもんじゃない。うちの連中が喜んで支援へ行くのは、その時の経験があるからです。人に何かをしてあげたというよりね、こちらが大きなものをいただいたと感じる。これはね、得難い経験です。
支援に行くと、風呂と便所は大切です。食事は何とかなるけれど、風呂と便所は快適でないといけない。阪神大震災は1月、東日本大震災は3月。どちらも寒かった。防寒の対策が必要だった。中越沖地震は7月。これは暑かった。この時はシャワーが功を奏した。
支援に行く目的は協力会社の復旧だ。しかし、その会社の設備や機械を直せばいいわけではない。周りを見るとは一般の人たちの生活を見て、支援することだ。季節も考えて、物資を用意していく。さらに、何よりも先に直すのは便所と風呂だ。さらに、朝倉たちが気を配ったのは洗濯機である。
保全のメンバーは協力会社や避難所の洗濯機を管理するシステムを構築する。トヨタ生産方式でリードタイムを短くして、1回に洗濯する量を平準化する。洗濯機がつねに回っているように計画を立てる。そうして、協力会社や支援に行った人間、避難している人間の衣服をつねに清潔にする。そうすれば病気にもならない。
朝倉は中越沖地震の時、体のごつい保全マンがヘルメットをかぶりながら、洗濯機を並べて回し、その後、洗い終わったものを黙々と干すのを見た。乾いた作業着を畳んで、協力会社の女子社員に渡している姿を見て、微笑ましいと思った後、涙が出たという。
それは素晴らしい光景だったからだ。