ベアリングの卸業に着手…鍋清が読んだ「世界の流れ」
判断が正解だったことを証明するかのように、鍋清は追い風を受ける。1914年から始まっていた第一次世界大戦の影響で、工業が急拡大していくことになるのだ。
世界的に船が不足し、海運、造船業界の需要が増えた。同時に、戦地であるヨーロッパ諸国の工業が戦争の影響で停滞し、アジアの市場から後退していく。このような環境のなかで、日本は工業生産を伸ばし、輸出超過の債権国になった。国内においても、工業生産額が農業生産額を上回るようになった。
ウィリアム・ペティは、国が発展し、成長するとともに、主な産業が一次産業である農業から二次産業の工業へ、そしてサービス業の三次産業へと移っていくことを証明した。当時の日本がまさにその状態だったといえるだろう。
工業化により産業構造が変わり、仕事の内容や働き方が変わる。その波を察知し、初動に乗った鍋清は、21年に鍋清商店を法人化した。1926年には鋳物部を完全に閉鎖し、機械工具商の専業となった。
実はこの頃、のちのメイン事業となるベアリングの卸業にも着手した。1937(昭和12)年、23歳だった父の光男が東洋ベアリング製造(現在のNTNグループ)と代理店契約を結び、熱田区沢上町に店を構えてベアリング卸業に乗りだしたのだ。
父は「名古屋のベアリング業界では鍋清は古いほう」とよく言っていた。その言葉には、自信と自慢が感じられた。私の記憶のなかでも、父はベアリング一筋の人だった。
「挑戦をいとわない社風」を作り上げた三代目の生き様
父は少し複雑な環境で育った。父は三代目だった清太郎の三男で、跡継ぎになった。三男で跡継ぎとなったのは、長男と次男がすでに他界していたためだ。
また、結婚してからは、妻と、妻との間に生まれた長男とともに結核を患い、一時、一家で知多半島の小野浦というところに移住していた。ここは現在は海水浴場として有名な場所で、当時は海風が結核に良いということで療養していた。
結核は、今はBCGワクチンによって予防可能な病気になったが、当時は不治の病として恐れられ、日本人の死亡原因の1位にもなっていた。
しかも、人から人に感染する。今でいうなら新型コロナウイルスに似ていて、国全体を滅ぼすかもしれない亡国病とも呼ばれていた。実際、父の妻と長男も結核で亡くなった。
父が回復し、84歳まで長生きできたのは、当時の医療環境を考えれば非常に幸運だったのだ。
ベアリング事業に着手したのは、療養を経て名古屋に戻ってからのことだ。機械工具の事業を私の祖母と私の叔父に任せて、新たにベアリングの卸業を始めた。
名古屋に来てからわずか20年の間に、鍋、機械工具、ベアリングへと事業を変えていく。鍋から工場用品に軸足を移した清太郎と同様に、父にもベアリングが事業になるという自信があったのだろう。あるいは九死に一生を得る経験を通じて、挑戦することに積極的になったのかもしれない。
「ベアリング需要は工業化とともに増えていく」そう予想し、ベアリング事業に自分と会社の未来を託そうと思ったのかもしれない。
加藤 清春
鍋清株式会社 代表取締役社長
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