開業医…「特別受益」にはとくに注意が必要
開業医のご家庭では、とくに「特別受益」にまつわるトラブルが多いので、詳しくお話ししておきます。これは、私自身のエピソードです。
入院中の母を見舞いに行くため、何年かぶりに妹と市営バスに乗り込みました。「バスに乗るなんて、学生のとき以来だわ」。座席に腰を落ち着かせ、思わず懐かしくてそう話しかけると、年子(としご)の妹からこんな言葉が返ってきました。
「お姉ちゃんはいいわよね。電車やバスで通学できて。私は歩いて学校に通わされたのよ。運動をやっているのだから、これくらい歩けって言われて、バス代をもらえなかったわ。それに、私だって本当は進学したかったのよ」
私は声にこそ出しませんでしたが、その言葉を聞いて「うそでしょっ⁉」と、啞然としてしまいました。妹は、幼い頃からおてんば娘で、誕生日に庭に鉄棒を買ってもらい、大喜びしているような子どもでした。一方、リカちゃん人形が大好きだった私は、ある日庭に設置された鉄棒に、セーターを巻きつけ片足をかけ、グルグル回っている妹が落ちてケガをしまいか、ヒヤヒヤしながら見ていたものです。
およそ勉強には縁がない娘で、当時流行っていた「アタックNo.1」の主人公、鮎原こずえに憧れ、中学校からバレーボールに夢中になっていました。高校はバスで停留所が4つくらいの場所にある、私立の女子校に通っていました。片道30分ほどの徒歩通学だったでしょうか。高校卒業後には実業団へ入団し、寿退社をするまでバレーボールを続けていた、生粋のスポーツ女子なのです。
それなのに、今になって「進学したかった」のが本心で、「バス通学がしたかった」と言うのですから、これには驚きました。妹の言い分はまだ他にもあるのです。
「おばあちゃんの家でお風呂から出てきたら、お姉ちゃんはおでんのちくわぶをもらったでしょう。後から出た私も、ちくわぶが大好物だから、もらえると思って楽しみにしていたのに『もう、ないよ』って言われたの。だから、私はおばあちゃんの家にはあまり行かないようにしたのよ」
私はまったく覚えていないのですが、妹は今にも泣き出しそうで、まるでその場にいるかのごとく語り続けます。「差別」されたときの「不公平感」がぐっさりと胸に刺さって、心の奥底にわだかまっていたのでしょう。この妹の本音を、仲良しのときに聞けてよかったと思います。
「悪かったね。ごめんね。お姉ちゃんが気づいて半分こにすればよかったね」私は素直に謝りました。子どもっぽい話に聞こえるかもしれませんが、しばしば相続・事業承継のご相談の中で、揉める原因の根底に、このような幼い頃から抱えていた想いや不公平感があります。他の兄弟姉妹に比べ、自分はちゃんと愛されていたのだろうかという、理屈ではどうにもならない感情が心を揺さぶるのです。
大人ですから、子どもじみた本心は語らず、父か母のどちらかでも元気なうちは自制しますが、両親亡き後、心に歯止めが利かなくなります。もし、不公平感をもった妹が、父の遺産を分けるときに、「お姉ちゃんは大学に行かせてもらったでしょ。私は行かなかったのだから、財産はその分、多くちょうだいね」と言い出していたら、私はどうするのでしょう。
特別受益は「相続時の時価」で計算しなければならない
私だけ大学に行かせてもらった学費は、父から相続される財産を前渡ししてもらったということになります。これを「特別受益」といいます。特別受益については、やっかいなことに相続時の時価で持ち戻して計算をすることになっています。
30年前、実際に払ってもらった大学生活にかかった費用を、今現在の価格に持ち戻して計算し直し、その金額を考慮して遺産を分ける話し合いをしなければなりません。恐ろしい話ですが、お医者様のご家族ではこの特別受益の問題が起こりやすいのが実情です。
たとえば、こんなことがありました。ある日、開業医の奥様と相続対策のご相談をしていたところに、娘さんから電話が入りました。友人から「医学部に行かせてもらった兄と、医学部でない私は、遺産額に差をつけてもらえるらしい」と聞いたそうで、そのことを相続対策中のお母様に報告する電話でした。
医学部に進学した子どもと、しなかった子ども。海外留学した子どもと、しなかった子ども。予備校に通った子どもと、通わなかった子ども。習い事をさせてもらった子どもと、そうでなかった子ども。特別受益には様々なパターンがあります。
そもそも、まったく平等に兄弟姉妹にお金をかけるということは不可能ですから、どこかで偏りは出るはずなのです。ただ、開業医のご家庭ではその偏りが大きく出ることが多いため、トラブルを呼んでしまいます。
「医療法人の出資持分を、毎年非課税分だけ贈与してもらっていた後継者の息子」と「贈与されず嫁いだ娘」のケースで、この特別受益の問題を掘り下げてみます。
贈与には毎年110万円の非課税枠があります。毎年この非課税枠内で、息子に出資持分の贈与を30年間続けていたとします。この場合、贈与税は無税です。ところが、特別受益の計算では違ってきます。相続が起こった時点の時価で計算し直しますので、クリニックが10倍の規模になっていたとしたら、110万円の贈与は、10倍の1100万円の贈与として計算されてしまいます。それを30年間していたとなると、3億3000万円です。
「兄は3億円以上もらって、私は一銭ももらってない!」
妹も、努力して医師になった兄が医療法人を継ぐのは当たり前だと思っていたはずなのに、まだ相続も発生していないうちから、人から聞いた話や、週刊誌やテレビなどの部分的な情報が、仲良し兄妹の関係にヒビを入れ始めます。インターネットの普及により、専門知識を簡単に得ることができるようになったことで、ますます親族間の争いは増えています。
昔、相続争いはお金持ち一族のお話でした。記憶にある方もおいででしょうが、横溝正史の「犬神家の一族」という小説がありました。財産を我が物にするため繰り広げられる身内同士の恐ろしい殺人事件は、自分とは関係ない世界のサスペンスドラマだったはずです。
「相続」の話をすると、「うちにはそんな財産はないから大丈夫」という方がほとんどでしたが、今は時代が変わったのです。犬神家さながらの事件が、ごく普通の家族の間でも起こるようになってしまいました。
平成26年の司法統計によると、争った家族の75%が5000万円以下の遺産で揉めたのです。分けられる財産が特別多いわけではなく、住んでいた自宅と生活口座に残った預金が少しという、よくある普通の家族も揉めてしまう時代なのです。そういう意味で、相続争いは他人事ではありません。
2016年5月に二件の遺産争いをめぐる殺人事件が報道されました。どちらも60代の兄弟によるものです。東北で起きた放火殺人事件では2014年11月に遺産争い裁判の判決が下されており、弟が兄へ1100万円を賠償するよう命じられていました。
それぞれに言い分があり、過去にどんな事情があったかはわかりませんが、相続税は1円もかからない、3000万円あまりの母の遺産をめぐり、血みどろの争いの末、二人ともこの世を去ってしまったのです。
こんな悲しい結末を、母は想像したことがあったでしょうか。きっと命がけで育ててこられたのでしょうに、痛ましい事件です。幼い頃の幸せな記憶は、二人の仲をつなぎ止めてはくれませんでした。そればかりか、遺された子孫に取り返しのつかない重荷を背負わせてしまうことになりました。
私も、二人の息子をもつ母として、他人事で済まされる話ではありません。二人とも結婚し、今はお互い仲良くしていますが、何かの変化をきっかけに、仲が悪くなる可能性はゼロではないでしょう。子どもたちには、仲良く助け合って幸せに暮らしてもらいたいと願うのは、私だけではないと思います。そのためにも、やはり相続対策が重要になってくるのです。