制限だらけの身分制度「士農工商」
図表2の円グラフを見てください。武士はたったの7%です!
江戸時代は、支配階級としての「武士」、武士に年貢(ねんぐ)を納める立場である「百姓」、都市に住んで職人や商人として生計を立てる「町人」などのさまざまな身分に分かれていました。これらについて、「士農工商」と呼ばれることもあります。また、差別を受けるような身分もありました。
これらの身分は親から子へと引き継がれ、身分が変わることはほとんどありません。つまり原則として武士の子孫は武士だし、百姓の子孫は百姓になるしかないということです。今の時代のように職業を自由に選ぶことはできません。
また、結婚をするのも同じ身分の人でなければならず、自由な恋愛は認められなかったのです。
武士の家に生まれたら、生活はラクなほうです。城下町に住み、百姓、つまり農民の納める年貢米(ねんぐまい)を売って生活。さらに武士は、苗字(みょうじ)を名乗り、刀を持つことを許されていました。このことについては「苗字帯刀(みょうじたいとう)が認められた」という言い方をします。
でも農民には「権兵衛(ごんべえ)」みたいな名前しかなかったのです。また、「農民や町人が武士に無礼なことをすれば、切り殺してもいい」という切捨御免(きりすてごめん)も認められていました。
一方の農民は、四公六民(しこうろくみん)や五公五民(ごこうごみん)という年貢を納めなければなりませんでした。四公は四割が公(つまり幕府)に、五公は五割を幕府に納めなければならないということ。収穫の半分ですから大変です。
しかも、衣食住まできっちり決められていたそうです。麦・あわ・ひえなどを食べ、米を多く食べないようにしなさいだとか、お茶やお酒はぜいたく品だから禁止だとか、着物は麻や木綿以外は使ってはならないだとか…。
武士からしてみれば、農民が働いて納めた年貢で生活していくわけですから、それはもう、厳しく取り立てます。しかも、人や馬を出して荷物運びをさせられる助郷役(すけごうやく)を課せられるところもありました。
これらのことは、慶安の御触書(けいあんのおふれがき)という徳川家光が定めたとされるルールに書かれています。「定めたとされる」というのは、じつは嘘と考えられているからです。
今では、徳川家光のもっと後の時代に甲府藩(こうふはん)が定めたとされています。歴史は変わるという一例ですね。
「農民間の身分差」と「連帯責任」で農民をうまく支配
農民はみんな平等かと言うと、そうでもありませんでした。土地を持った本百姓(ほんびゃくしょう)と、土地を借りて農業をする水呑(みずのみ)百姓は区別され、名主(なぬし〔庄屋<しょうや>〕)・組頭(くみがしら)・百姓代(ひゃくしょうだい)の村方三役(むらかたさんやく)という村役人が選ばれ、村を治めました。もちろん、武士にきっちり管理されている中でのことです。
こうして、村の農民を治めるのが農民代表である村方三役ということで、不満を抑えることができると幕府は考えたのでしょう。自分たちの仲間ならあまり文句も言えません。幕府は、どこまでも農民たちをうまく支配しようと考えていますよね。
また、みんながしっかり働くように五人組(ごにんぐみ)という制度を設けました。年貢や犯罪について、共同責任を負わせるのです。1人が悪いことをしたら、5人みんなが罰せられる。
そうすると、「自分ひとりならサボってもいいかな」という気持ちが、「みんなに迷惑をかけるからしっかりしなくては」という考えに変わるわけです。
松本 亘正
中学受験専門塾ジーニアス運営会社代表
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