日本のウイスキーの歴史にまつわる大きな誤解とは
ここからは日本のウイスキーの歴史をたどっていきましょう。
日本のウイスキーの歴史を紐解くうえで、最初にぶつかる疑問があります。次の二点です。
●日本にはじめてウイスキーを持ち込んだのは誰か
●日本で最初にウイスキーを飲んだ日本人は誰か
そもそも日本にはじめてウイスキーを持ち込んだ人物として、これまで考えられてきたのがイギリス人の三浦按針(みうらあんじん)(本名ウィリアム・アダムス)でした。三浦は、イギリス海軍に入って船長を務めたのち、軍を離れてオランダへ渡り、1598(慶長3)年、オランダの商船であるリーフデ号に乗船。リーフデ号は航海の途中で暴風に遭い、1600(慶長5)年、今の大分県に漂着しました。
その後、三浦は徳川家康(とくがわいえやす)と会見。以降、三浦按針と名乗り、家康の外交顧問を務めました。その三浦がウイスキーを日本に持ち込んで家康に献上。家康がウイスキーを飲んだ最初の日本人である──。これが長らくの定説となっていましたが、イギリスの歴史を考えれば、この説は誤りだろうと私は考えています。
イギリスは、イングランド、スコットランド、ウェールズ、北アイルランドの四つの地域で構成されています。スコットランドとイングランドが、同じ君主を戴(いただ)いて連合する「同君連合」となったのは1603(慶長8)年です。同君連合になる前も、なったあとも、二国はしばしば対立してきました。先に三浦をイギリス人と書きましたが、正確にはイングランド人です。
三浦がリーフデ号に乗船したのは1598年。スコットランドとイングランドが同君連合になる前です。三浦がイングランドに暮らしていた時期、すでにスコットランドではウイスキーがつくられていました。しかし、当時のイングランド人は、スコットランドの地酒にすぎなかったウイスキーを飲んだこともなければ、聞いたこともなかったでしょう。したがって、三浦がわざわざスコットランドの酒をオランダに持ち込んで船に乗せ、さらには徳川家康に飲ませたとは到底考えられないのです。
三浦は日本に漂着した外国人です。では、その逆のパターン、つまり、漂流した日本人が海外でウイスキーを飲んだ、あるいは日本にウイスキーを持ち帰った可能性はどうでしょうか。
江戸時代に海外に行った日本人として有名なのは、大黒屋光太夫(だいこくやこうだゆう)と中浜万次郎(なかはままんじろう:ジョン万次郎)です。伊勢国の商人だった大黒屋は、江戸への航行中に台風に遭い、7ヵ月余りの漂流の末にアリューシャン列島のアムチトカ島に漂着。その後、ロシアに10年間滞留し、1791(寛政3)年にエカチェリーナ2世に謁見(えっけん)しています。
一方の中浜は土佐の漁師の息子でした。1841(天保12)年、出漁中に遭難したところをアメリカ船に救われ、1843(天保14)年にアメリカのマサチューセッツ州に到着します。大黒屋も中浜も10年ほど海外に滞在し、その後、日本に帰国しています。二人が海外滞在中にウイスキーを飲む機会があったかどうか。大黒屋はなかったはずです。というのも、大黒屋がロシアにいた時期、スコットランドではウイスキーの密造が盛んに行なわれており、政府公認の蒸留所というものはありませんでした。アイルランドも似たような状況にありました。
そんな状態で、スコットランドやアイルランドのウイスキーがロシアに出回っていたと考えるのは無理があります。その時代にロシアでウイスキーがつくられていたという話も聞いたことがありません。また、中浜がアメリカに滞在していた当時、アメリカではすでにウイスキーがつくられていましたが、その主要な生産地はケンタッキー州やバージニア州で、万次郎が暮らしたマサチューセッツ州ではそのころウイスキーがつくられていたという記録はありません。
加えて、マサチューセッツ州はイングランド出身のピューリタン(清教徒〈せいきょうと〉)が大勢移住した地域です。イングランド出身で、なおかつ道徳的戒律を重んじる彼ら彼女らがウイスキーをつくっていた可能性は低いといえるでしょう。以上から、大黒屋光太夫あるいは中浜万次郎が、ロシアもしくはアメリカでウイスキーを飲み、それを日本に持ち帰ったという線はかなり薄そうです。両者とも手記を残していますが、ウイスキーに関する記述はありません。