「若者たちが話を聞かなくなった」と思いきや…
私はよく、学生さんとファミレスで深夜まで話し込むことが多かった。夜中の12時を過ぎると、さすがに私の話も聞き飽きただろうと思い、学生さんがトイレに入ったタイミングで帰る準備を済ませていたら、フリードリンクをおかわりして戻ってきた学生さんに「さあ、話の続きを」なんて言われて夜中の3時まで話し込む、という感じだ。
なぜ若い人は私の話を聞きたがるのだろう、と不思議に思っていたが、ある時期から当然と思うようになった。すると皮肉なもので、当然視したとたんに学生さんが話を聞いてくれなくなった。むしろ、早く話が終わらないかな、とソワソワされるようになった。私の話にうなずくどころか、首をかしげて「そうでしょうか?」と口答えされるようになった。
ずいぶん偉そうな口を叩くじゃないか、と思っていたら、他の学生さんも私の話を聞かなくなってきた。ということは、どうやら学生さんが変わったのではなく、私が変質してしまったらしい。どこが変わったのだろう、と考えてみて気がついた。「自分の話したいことを話していた。早い話、自慢話ばかりしていた」と。
逆に、彼らが眠い目をこすってでも、私の話を聞きたがっていたときは、相手が聞きたそうなことを話していた。自分が学生だった頃、どんな不安や苦悩を抱いていたか。同じ苦しみがあるのではないか。だとしたら、こんな話が参考になるだろうか、と若い人の関心に寄り添うように話していたとき、学生さんは身を乗り出して話を聞いてくれた。そう思い直し、彼らの反応を見ながら試行錯誤して、若い人が悩んでいそうな話題を心がけたら、また夜中まで話を聞きたがるようになった。
若者が聞きたいのは「ヒントになる説教」
どうも人間(特に男性)、年を食うと説教したくなるものらしい。年齢に応じて知識も経験も増えてくると、それらが欠落した若者が愚かに見えてくる。だから親切面して教えてあげたくなるのかもしれない。
しかしながら、「教える」という行為は、基本的に「劣化コピー」しか生み出せない教育法だ。どれだけ鮮明でキレイな写真も、コピーの上にコピーを重ねると、どんどん画質が悪くなっていく。教えてもらった側は、言葉の上っ面を理解するだけで経験が欠落しているから、余計に知識が劣化しやすい。そうなると年配者はまた教えたくなって、うるさがられる。
昔と違って、若い人は年配者のお説教を聞きたがらない、とよく言われる。特に私のような団塊ジュニアの人間は、お説教を嫌った世代だ。そのせいか、年配者の方も若い人に遠慮して、お説教する場面が減った。
だが、今の若い人は年配者の話を聞きたがっている。事実、何時間も「お説教」を聞き続ける若い人の姿を私はよく見ている。若者が嫌いなのは、お説教というより自慢話だ。年配者は自分の知識や経験を「どうだ、すごいだろう」とひけらかし、驚いてほしいと願っている。それが若い人にはわずらわしいのだろう。だから、「すごいですね。でも、私には関係ありません」となってしまう。
では、若い人が好むお説教とは、どんなものか。それは、「ヒント」だ。若い人は知識も経験も少ない。だから未来に対して大きな不安を抱いている。その不安をどうしたら克服できるのか、何かヒントがほしいと願っている。年配者のお説教が「もし何かヒントになれば」と願ってのものなら、若い人は身を乗り出して聞いてくれる。
しかし同じ内容でも、自慢話風だと違う。「俺はこんな艱難辛苦(かんなんしんく)を乗り越えて、今の地位を築いた。どうだ、すごいだろう」という話は、不安でいっぱいの若者にはどうでもよい話に聞こえる。若い人は聞く耳を持たなくなり、年配者であるあなたは若い人から何の情報も引き出せなくなる。あまりにもったいない。