客観的な視点からの「おもしろさ」が処世術
私の祖母は医者の奥様というのもあって、地元の婦人会のまとめ役をやっていたんです。だから家にはよく近所の人が集まってきて、祖母が料理を振る舞ったり、一緒にお茶を飲んだりしていました。
祖母は今でいう“毒舌”で、口は悪いけれど、祖母が話したことでドワッと周囲が盛り上がったりもして。祖母のそういう姿を見ていたら、「おもしろいことさえしていれば、人格はさておき人は集まってくるんだな。だったら、おもしろい人になるぞ!」と、祖母の教えに反して、そう決めたんですね。
担任の先生とか、アニメに出てくる人物のモノマネとかを学校でやって、笑いをとれる人間を目指したわけです。
そのスタンスは40歳を越えた今も変わらなくて。生きるうえでの私のキーワードは、おもしろいか、おもしろくないか。ものごとを決めるときや迷ったとき。いつでもこれを基準にします。
たとえば洋服を選ぶときも、カワイイとかキレイとかはどうでもよくて、それを着た私がどういうイメージになるかがポイント。「こんな格好は、変わっていておもしろい」とか、「ギャップがあっておもしろい」とか。
大切なのは、自分自身がおもしろがれること。さらには、そんな自分を見た周囲の人が私をおもしろがってくれること。そんな周囲の反応を、私がまたおもしろがれること。そういう客観的な視点からの「おもしろい」が、私にとってのエンジンなのかもしれません。