「〇〇になりたい」の根源にある欲求を深堀りする
たとえば、いきなりな例ですが、欲しいものリストを書き出していった結果、「実は教師になりたいんだ!」とあなたが自分の一番の欲求に気づいたとします。そうしたら、その実現のために具体的にあなたはどんなことをするでしょうか?
教師になりたいなら、多くの人は「まず教育学部行って〜、教員免許取って〜、実習受けて〜」と考えるはずです。
もちろん、それはルートとしては正しい。もう限りなく安パイで確実で正解です。でも、それを見ていて、ひねくれた僕はこう考えてしまいます。「じゃあ、それで教師になったとして本当に欲しいものが手に入るの?」って。というのも、 「教師になりたい!」だけでは自己理解としては圧倒的に弱いからです。
なぜ教師になりたいのか。たとえばそれが「子どもの笑顔が見たいから」という理由だったら、別に保育士でもいいわけだし、極端な話、隣の家の子どもと仲良くなるだけでもいいわけじゃないですか(いまの時代だと通報されちゃうかもしれないけど)。
「公務員として安定したい」が理由なら、市役所職員じゃダメなの?って話だし、「えらそうに説教する立場になりたい」ならクレーマーおじさんになることでも欲求は叶えられます。
つまり、 「教師になりたい」みたいな欲求があると気づいた場合、さらにその奥に潜む自分の真の欲求、なぜなりたいのか、まで見つめることができてはじめて「自己理解」なのです。
プロ野球選手とかYouTuberをなんとなく目指している小学生は、本当に欲しいものはもしかしたら「なんかかっこいいと思われることがしたい」かもしれない。「東大に入りたい」と思っている高校生だって、本当は「東大に入って、外資系金融マンになって、女子アナと結婚したい」のかもしれない。
でも大多数の人が、大人になってもこの目に見える欲求と潜在的欲求とのギャップをちゃんと理解していないわけです。
だから、欲しいものリスト作りの中で「〜になりたい」「〜が欲しい」「〜したい」というものに直面したら、「自分が欲しいと思っているそれは、本当に自分が手に入れたいものを含んでいるのか?」と突き詰めて考えてみることが大事なのです。
「えらそうにしたい」と思って教師になったとしても、いまのご時世じゃ別にえらそうに生徒に説教なんてできないかもしれないし、「子どもの笑顔が見たい」と思ってたとしても「ごくせん」みたいなクラスに配属されたら生徒の笑顔を見るどころの話じゃないかもしれない。
一般的なイメージや社会的成功だけで行動指針を決めても、思い通りになることはほとんどありません。期待しすぎて実態もよくわからないまま手に入れても、自分が欲しいものを含んでいるとは限らない、というお話なのです。