「親」をあきらめてみる
人生であきらめにくいハードル、その最初は「親」です。
具体的に言うと、「親からのプレッシャー」とも言えるかもしれません。たとえば「親からの期待がつらい」というパターンってよく聞きますよね。親は「子どもにこうなってほしい」という理想像を押しつけがちです。
だから、やさしくて真面目な優等生タイプの人ほど、「親の望まないことなんてしたら、親不孝者だ」「会社をやめて嫌なことをしないで生きるニートなんてできない」みたいに、罪悪感を持って自分を責めるのだと思います。
ただ、もうわかっていると思いますけど、この「親への罪悪感」というのが、ラクに豊かに生きるためにはコストがすごく高い。めちゃくちゃハードルになっているのです。
もちろん、「やっぱり親が悲しむことは絶対できない」と思う人は、「『親をあきらめる』ことをあきらめる」でもいいんですけど、もし「親の期待に応えるのはやめよう!」って決意できたら、それってものすごい自由が待っているわけです。
そもそも僕は思うんですけど、血のつながった親だろうが何だろうが、他者への期待っていうのは、その他者自身が一方的にしているだけのものなので、別に絶対応えなきゃいけない義理ってないんですよね。むしろ、他人の人生に介入してコントロールしようなんてかなり傲慢(ごうまん)。
それに人間っていうのは、一回期待に応えると感謝するのではなく図に乗る傾向もあるから、一回でも期待に応えてしまうと、次もまたその次も……と一生期待の奴隷(どれい)にされる。
ちょうどテストで一回100点とったら、その次も100点を期待される。もしとれなかったら80点とれていてもガッカリされる、みたいなものです。
だから、家族だろうと何だろうと、他人からの勝手な「期待」は初回からガンガン裏切っていけばいいと思うわけです。「育ててもらったし」とか「恩返ししなきゃ」なんて義務感を背負う必要はまったくない。親の望む理想の自分になれなくていいのです。
ちなみに、その逆も然しかりで親に「理想の親像」を期待するのもまたムダな話です。「こんな親であってほしかった」「こういう家に生まれたかった」なんて思っても、親とあなたは血がつながっているだけの別の人間なので、コントロールはできません。これも傲慢です。
彼らには彼らの人生があって、歴史がある。それだけの関係性なんだから「こうしてほしい、ああしてほしい」なんて互いに求め合うことはやめて、適切な距離感を保てばいいだけなんです。血がつながっているから「理解してくれるはず」というのは思い上がり、というわけです。