
お金は大切で、よりよい人生を生きるための1つのツールといえる。しかし、令和の時代は、なんでもあり。ここでは、プロ奢ラレヤー氏の“奢られ”て食い扶持を稼ぐという「新しい生き方」を紹介する。誰しも真似できる生き方ではなく、賛否両論もあるかもしれない。しかし、彼の生き方を知っていることで、いつか人生に躓いたときに「なんとかなるか」と肩の力を抜いて前を向ける、かもしれない。本連載は、Twitterを介して他人に奢られて生きるプロ奢ラレヤー氏の著書『プロ奢ラレヤーのあきらめ戦略』(祥伝社)から一部を抜粋した原稿です。
「食事」をあきらめてみる
人生であきらめにくいハードル、4つ目は「食事」です。
これはわかりやすいと思いますが、食事に対してのコストがかかるこだわりをあきらめられるかどうか、という話です。そもそも食事には2つのカテゴリーがあります。1つは動物的な機能を維持するためのカロリー摂取。もう1つは娯楽としての食事です。
おいしいものを食べるっていうのは娯楽なわけで、そもそも食べる時間がもったいない、カロリーだけ摂とれたらいいっていう人は、完全食のサプリメントでも摂取してればいいし、食事の質にこだわらない人なら、安さを重視して食べておけばいいわけです。
実際、僕自身、食に関しては何のこだわりもないので、普段、贅沢なご飯は食べていません。もちろん奢られて高いメシやうまいメシを食うこともあるけど、自分のお金で5万円する寿司を食うかっていったら絶対ない。だって5万円の寿司と100円の寿司はもちろん違うと思うけど、価格差を埋めるだけの価値を僕は感じられないから。
とはいえ、勘違いしてほしくないんですが、僕は娯楽の部分をすべて否定するわけではありません。むしろ肯定。「うまいメシを食べる」とか「高級なレストランへ行く」っていうのも、やりたい人はやればいいと思う。ただ、その娯楽行為について「自分が、何をあきらめられないためにしているものなのか?」という点を認識したうえで、「それは自分が本当に楽しいと思ってやっていることなのか?」ということは、もう少し突き詰めてもいいのかなと思います。
たとえば、別に人生で必ずアルコールを飲まなきゃいけないわけじゃないのに、「酒を飲むと楽しいんだ」「本音で語り合えるんだ」的な刷り込みによって、惰性でアルコールを摂取しているだけだとしたら、そこにかかるコストは自覚したほうがいい。

見栄を張ることだってそれが動力源になる人はどんどん張ればいいのかもしれないけど、「いま本当に自分に高級品は必要なのか?」「女性と行く高いご飯は必要なのか?」「お金に余裕ができてからでもいいんじゃないか?」みたいな視点は持っていたほうがいいと思うわけです。
人生にはいろんなフェーズがあるので、お金に余裕があってしんどくない人は、もちろん見栄を謳歌(おうか)していいと思います。ただ、お金に余裕のない序盤フェーズにいる(序盤フェーズを抜け出せそうにない)しんどい人は、「あきらめ戦略」であきらめられるものを増やすほうが健全。そして食事に関して、その視点で人生に必要なものと必要でないものを分類すると、何があってもあきらめちゃいけないものって、カロリー摂取みたいな動物的なものになってくる。
だから、娯楽部分に属するジャンル、食事なら「うまい」「高級」みたいな部分はやっぱりあきらめられるものの上位にくるというのは理解したほうがいいわけです。