初対面で信頼関係が築けなくても大丈夫
仕方ないです。
……と言ってしまっては申し訳ないですが、人には俗に言う「カラー」があります。
以前あるカリスマと一定の期間接する機会がありました。
カリスマはすごいものでした。それは「非・準言語的メッセージ」の強力さです。おそらく生まれ持ったものだと思います。素晴らしい楽器のような声、自信にあふれた態度、普通に考えれば偉大な人に見えますし、実際に初対面で彼を悪く言う人はいませんでした。けれども強力な初対面効果を持つ人が、必ずしもまともな方とは限りません。そのカリスマを信じた人は不幸な結末を迎えました。
おそらく詐欺師や、民衆にいただかれて権力を手にしたのちに裏切る独裁者などは、極めて強力な「非・準言語的メッセージ」を持ち(むしろ私は、カリスマとは極めて強力な「非・準言語的メッセージ」を有する人と呼んでも良いくらいと思います)、ゆえに初対面の際、あるいはしばらくの間絶大な信頼を誇り、多くの人と仲良くなることができますが、そのうちにぼろが出るのです。
私はある意味その対極に位置するので、初対面の方とお話しするのは決して得意ではありません。けれども「傾聴」「人を支える」という点では、それはむしろ関係がないようです。
そもそも誰かを支える時は、その方の物語をつかみ、その方の物語に何らかの示唆を提供する必要があります。雄弁なカリスマは、誰かの物語を己の物語に一瞬で書きかえてしまうことがありますが、それが苦悩者自身の物語ではないことは明白であり、いつしか矛盾が生じます。
例えばドイツの大哲学者ヘーゲルがナポレオンを評価していたのが、のちにまったく逆になった、などという逸話は、まさにカリスマの「最初の効果」が鮮烈であるが長続きはしないことを示しているのではないかと思います(中には洗脳されてしまう人もいますが、通常の思考能力を持っていれば、いつしかそれが「依存」であったことに気がつくはずです)。
人にはそれぞれの個性があります。自分から出ている雰囲気を意識することです。例えば私は、「徐々に理解していただく」パターンが多いので、最初に仲良くなることはあまり期待していません。実際に期待したとしても、裏切られることでしょう。
けれども、例えば私たちが死病になったとして、終末期の現場までともに過ごす人は実は多いわけではありません。ですから友人が多くても、最後まで付き合えるのはほんの一握りです。友達が多いことは良いことですが、そうでなくても決して苦しむ必要はないと自信を持って言えます。本当にそばにいられる人は物理的にも心理的にも少ないのです。
毎回初対面でスムースに信頼関係が築けなくても、それほど悩む必要はありません。もちろん「心」※1と「技術」※2は理解してください。そのうえでの「うまくいかない」であれば、大丈夫だと思います。それが自らの個性であると思うことです。
※1 苦悩する人を支えるときの心のこと。①その方の一番の気がかりとなっていることを聴く。②一番の気がかりだけではなく4側面(身体、精神、社会、スピリチュアル)の苦しみを聴く。③その方の物語を意識しながら聴く。可能なら、今に至るまでの経過を話してもらう。
※2 相手に受け入れられる非言語的メッセージを発すること。トーンを下げた、ゆっくりとした言葉の抑揚、需要的なふるまい、柔和な表情など。
ただ最後にひと言。生き方が顔に出ると言われますが、故なきことではありません。これは本当に不思議ですが、悪いことをしているとそれなりの人相になりますし、性格がきつい人はやはりきつそうな顔をしているものです。それがあるきっかけで考え方や生き方が変わると、まるで別人のような顔になるものです。終末期に、物語の転換に伴って重いスピリチュアルペインから脱却した後の方々のとても晴れやかな顔を見るたびに、「顔や雰囲気は変わる!」と私は痛感しています。
ですから、なかなか人と良い関係を築けないという方も、できることはあります。ただし、不利な雰囲気を出している方は残念なことですから、傾聴の「技術」を実践してみてください。
昔から言われるように、「楽しいから笑うのか」「笑うから楽しいのか」という話があります。もちろん楽しいから笑うのですが、「笑うから楽しい」のかもしれませんし、実際にそう見えることも多くあります。普段の表情や話し方が変わることで、実際にものの考え方も変わるかもしれません。