学習はプロに任せ、親は子どもの「教養」を育む
◆読み・書き・そろばんはプロに任せる
わが家の息子たちは、読み・書き・そろばんを「くもん」で身につけました。選択していたのは、算数、国語、英語の3教科です。未就学児が習う簡単な漢字や計算くらいなら、親がドリルを買い、自分で教えてもよさそうなもの。でも、私は「勉強はプロに任せる」派です。どんなに幼い時期でも、勉強はプロに任せてきました。
くもんがある日は、教室に行って宿題を提出し、その日の課題をこなします。教室に行くまでには宿題をしなければならず、教室に行けばわずか30分足らずですが強制的に勉強をさせられます。そのことで、「教室に行くまでに勉強しなくちゃ」と子どものなかにスケジュール感覚が芽生え、勉強が習慣化されていきます。
簡単なことのようですが、同じことを家でやろうと思っても、案外うまくいきません。教室のような強制力がないので、結局ドリルの最初の何ページかだけやって終わりになってしまうことが多いのです。やってもやらなくてもよい、という状態だと、やはり人はラクなほうに流れてしまいます。
また、親が根負けして答えを教えてしまったり、何度言ってもできないのでイライラして叱ってしまったりすることもあるでしょう。そうなると、せっかく机に向かっても効果が上がらないばかりか、親子関係さえ悪化しかねません。
◆お金をかけなくても教養は身につく
教養とは、人をねたんだり、張り合ったりしない「人間力・誠実さ」の源です。この人間力をどう養うかと考えたとき、わが家はそれを楽器の習得に求めました。音楽の素養を身につけてほしいというのもありましたが、とりわけ弾きこなすのが難しいバイオリンはいくら練習しても終わりがなく、発表会では自分より上手な子どもが星の数ほどいます。
こうした環境に身を置けば、必然的に謙虚にならざるを得ません。人をうらやむより、練習を積み、自分の技術を高めていくことでしか道は開けないということを子どもに教えるにはぴったりだと考えたのです。
私がこうお話しすると、「楽器なんて買えないし、習えない。やっぱりお金をかけないとダメなのか」と言う人がいますが、それは大きな間違いです。確かに、お金を出して習うのがいちばん簡単かもしれません。しかし、お金をかけなくても、教養を深める方法はたくさんあります。
図書館には無料で借りられる本やマンガが無尽蔵にそろっていますし、美術館などでは子ども向けのワークショップも多数開催されています。地域によっては、学校の特別クラブ活動としてブラスバンドやオーケストラがあります。自治体が主催しているオーケストラのなかには、小学生から大学生くらいまでを対象に、バイオリンやチェロ、フルートなどのレッスンが数千円で受けられるアカデミーを開講しているところも少なくありません。
子どもが通っていた文京区の公立小学校のジュニアオーケストラは、ある熱心な先生の指導により、いつもコンクールの上位に食い込んでいました。子どもたちは、お金をかけず素晴らしい教えを受け、コンクールに出場するというまたとない経験をしたことになります。
大切なのは、かけられる費用の大きさではありません。どうすれば子どもに教養を身につけてあげられるか、常にアンテナを張っておく「親自身の情報収集力」なのです。
人生を豊かにする「教養の育成」には出費を惜しまない
◆「すぐ役に立つこと」を求めない
よく、「親にたくさん習い事をさせられたけど、なんの役にも立ってない」と嘆く人がいます。しかし、教養はそもそも何かの「役に立つ」ものではありません。
教養とは、人間の土台。その人のなかにしっかり根を張り、人生を豊かにしてくれるのはもちろん、自ら問題を見つけ、それを解決していくための方法を探し当てていく能力の基盤となるものです。
そう考えるようになったのは、アメリカの教育制度を知ったことにありました。マサチューセッツ工科大学のような理系の学生もアートを履修するなど、とても教養を大切にしているのです。
また、アメリカの大学というと、ハーバードなどのアイビーリーグばかり注目されますが、リベラルアーツカレッジといわれる大学も、多くの著名人を輩出している一流校として知られています。
リベラルアーツは、実用性・専門性よりも、幅広い知識や教養を身につけることを目的としています。人文・社会・自然科学や芸術など多種多様な学問に、自由にチャレンジすることができます。授業は学生参加型のものが多く、グループワークなども盛んです。かのスティーブ・ジョブズも、リベラルアーツカレッジであるリード大学の出身者です。大学を中退したものの、在学中は哲学やカリグラフィー(文字を美しく見せるための手法)など、興味のあるものだけを受講していたそうです。
のちにジョブズは、「大学にいたころには、点(カリグラフィー)と点(コンピューター)をつなげて前に進むことは不可能でした。でも10年後に振り返ってみると、とても明確に理解できるのです」と語っています。ITとは一見無縁のカリグラフィーに熱中したことで、他社よりずば抜けて美しい書体を有したiMacを生み出すことができたのです。
すぐ役に立つものは、すぐに役立たなくなってしまうものです。最先端のIT技術も、数年のうちに陳腐化してしまいます。実用性は仕事に必要不可欠なものですが、それだけに凝り固まってしまうと、実用の枠のなかでしか物事を考えることができなくなってしまうのです。
幼少期からできるだけ教養を深める経験をさせておくことは、必ず子どもの将来にいい影響を及ぼします。教養という土台さえつくってあげれば、音楽から得たヒントを新事業の起ち上げに活かしたり、歴史を知ることで得た大きな視点で携わっているプロジェクトをとらえることができたりと、自分の頭を使って問題を解決していくことができるようになるのです。
◆旅行代を「教育費」とした理由
わが家では、子ども4人を連れて行く家族旅行の費用を「教育費」として考え、家計が苦しいときも最優先の出費としていました。それは、子どもたちに〝お山の大将〞になってほしくなかったからです。
子どもは世界が狭いので、少し大きな家に住んでいるだけで自分の家が金持ちだと勘違いしたり、クラスでいちばんになっただけで自分は頭がいいと調子に乗ったりしてしまいがちです。
田舎で優秀と言われていても東京に出ればたいしたことがないように、東京でトップでも世界に出ればもっとすごい人がいる現実が見えてくるものです。海外旅行は、「自分なんてたいしたことがない」という正しい認識を子どもに持たせるのに、最適な体験といえます。
海外でも国内でも、子どもに特別な体験をさせようと意気込む必要はありません。ただ行くだけでいいのです。自分の知らない土地や海外ですごした経験は、子どもの見聞を広め、視野を広げ、何かあったとき「海外に打って出よう」と選択肢のなかに海外が加わることにつながります。
しかし、実は海外旅行を教育費としたのは、私たち夫婦が旅行好きだったことが、第一の理由です。まさに、親の勘どころのきく分野で、趣味と教育を兼ねて海外旅行を楽しんだのです。
子どものうちから海外旅行をさせるなんて贅沢だ、と思う人もいるかもしれません。しかし、わが家ではおこづかいは最低限しか与えておらず、余計なおやつなどは一切買い与えていませんでした。おこづかいを月2万円あげている家もありましたので、その年間24万円分を旅行代に回していただけと考えれば、何にお金を使うかの違いで、決して贅沢ではないと私は思います。
また、大人と子どもの「贅沢」の概念はまったく違っています。子どもにとっての贅沢は、努力せずに好きなものが買え、努力せずに要求がかなうことです。何でも「子どもファースト」であることが、子どもにとって最大の贅沢ですから、それはさせるべきではありません。
わが家では、家計予算の範囲内で大人が行きたい場所と日程を選び、大人の都合を優先する「大人ファースト」を実践していました。子どもは海外に行きたいと思っていないのですから、贅沢をしているという認識は皆無です。
長男が小2、いちばん下の四男が4歳だったときに貯金のすべてをはたいて行ったフロリダのディズニーワールドがはじめての海外旅行です。最初にフロリダを選んだのは、高校時代に留学したサンディエゴに家族を連れて行きたかったからです。
これを皮切りに、四男が16歳になるまでの12年間、ほぼ毎年、計11回(海外が9回、北海道が2回)の家族旅行に行きました。長男が中2のときの香港、中3のときのビンタン島、大学に入学した年のハワイは、家計が厳しいなか無理して行ったことを記憶しています。
おもちゃやゲームを買ってあげても、子どもは1週間もすれば飽きてしまいますが、旅行は思い出や経験として一生の財産になり、親自身の大切な思い出にもなりました。まさに「ものより思い出」の大切さを、いま実感しています。
林 總
公認会計士林總事務所 公認会計士/明治大学特任教授