「どうして? 何に迷っているの? お金?」
「へえー、何だかすごい変わったスクールじゃないの」
週が明け、私は職員室で千賀子と二人になった時に、『吉原龍子英会話教室』のことを話した。
ちなみにあのあと、有紀君から授業料についての説明を受けた。一番オーソドックスなパターンは、二時間コースらしい。週二回の通学ペースで、全部で百回。有効期限は一年。レッスン料は総額で三十万円になる。奇しくも、私が以前通った英会話スクールと同じ料金だった。
「じゃあ、入会するの?」
マグカップでココアをすする千賀子に、私は「うーん・・・」と言葉を濁した。
「どうして? 何に迷っているの? お金?」
「ううん。授業料は別に問題ないんだけど・・・断られたの、入会」
「え?何で?」
「極悪人だからって」
千賀子の口から、ココアが「ブホーッ!」と勢いよく飛び出した。
「ど、どうしてダメなんですか! 学校の英語の教師は?」
有紀君から、授業料の説明が終わった時だった。学院長さんが戻ってきたので、私は自分の職業を二人に明らかにした。身分を偽ったまま入会はしたくなかったからだ。すると、学院長さんの表情が阿修羅像のように豹変し、私の入会を拒否したのだ。私はその理由を尋ねたが、
「問答無用だ! 一昨日来やがれ! この国賊めが!」
そう言って、学院長さんは持っていた竹刀を振り上げた。
え、嘘! どうして? 私、斬られるの?
竹刀が振り落とされたと同時に、私は目を閉じた。何なの、この急展開!
しかし、次の瞬間、竹刀と何かの衝突音が教室中に響いた。ゆっくりと目を開けると、有紀君が私たちの間に割って入り、タヌキの置物で竹刀を受け止めていた。
「・・・何をする? 有紀」
「それはこっちのセリフですよ、学院長。やりすぎです」
「やりすぎ? どこがだ。日本人が英語を話せないのは、こいつらのせいではないか!」
学院長さんはそこでスッと竹刀を引いて、「そもそもお前、どうして隠していた? アンケートを書いた時に」
「そ、それは・・・その・・・」
学院長さんの突き刺さるような視線に耐えられなくなった私は、有紀君に救いを求めて目を向けた。しかし有紀君も、同じように厳しい表情をしていた。
「僕も聞いていませんでしたよ、桜木さんの本当の職業」
「そ、それは・・・正式に入会しようと思った時に言おうと思っていまして・・・」
私は、たまらずもう一度、学院長さんに視線を戻した。
「もしも学校の教師がダメなんだとしたら、ちゃんとした理由を聞かせて下さい」
「お前らが極悪人だからだ!」
私は「はい?」と大きな声を出した。
「お前、もしも高校四年生があったら、英語が話せるようになっていたと思うか?」
私はハッとした。そうだ、そもそも私はこのキャッチフレーズが気になったから、ここを訪れたのだった。すっかり忘れていた。
「中学で三年、高校でも三年。計六年。少なくともそれほどの期間、英語を学んでいるのに、日本人はちっとも話せない。お前たちは一体何をしているんだ? 英語の教師として、この現状にどこまで危機感を覚えている? 今の日本の英語教育の延長上に、本当に『話せる』があると希望を感じているのか?」
まるで喉元に竹刀の剣先を突き立てられているみたい。
「ハッキリ言う。お前たち教師のせいで、日本人はどんどん英語が話せなくなっているんだ。だから私はお前たちが大っ嫌いなんだ。目の前から消えて欲しいんだ。いや、消えろ。このゴキブリめ! 一昨日来やがれ!」
学院長さんは「帰ったら、表に塩を撒いておけ!」と有紀君に言い捨てて、奥の中央の机に向かい、エリザベスの隣にでーんと座った。
私はポカンと口を開けた。あの人にはきっと、『本音と建前』なんてない。『本音』だけで生きている。もはや天然記念物だ。今まで誰にも刺されずに生きてきたこと自体、奇跡だと思う。
ちょうどその時、ドアが開いて、「こんにちはー」と、長身で綺麗な女性が入ってきた。有紀君と軽く挨拶を交わして、「藤川(ふじかわ)さん」と呼ばれたその方は、奥の長机の一つに座った。恐らくここの生徒さんだろう。学院長さんが声をかけ、瓶詰めのキャンディを差し出していた。
「桜木さん。カレーはお好きですか?」
ボーッとする私に、有紀君は優しげな口調で声をかけてくれた。
「英会話の上達には、絶対に時間がかかります」
二階のインド料理屋さんは、予想していた通り、全く流行っていなかった。見事に今、有紀君と私の貸し切り状態である。私はほうれん草キーマカレー、有紀君はチキンカレーを、二人ともナン付きで注文した。料理は思った以上に早めに運ばれてきた。
私はモグモグとナンを齧りながら、店内を見回した。全体的に薄暗い。奥の厨房では年配のインド人が英字新聞を読んでいて、カウンターの横では若いウェイターのインド人が欠伸をしながら、棚の上のゾウの置物を布巾でキュッキュッと磨いていた。
「ここ、普通よりちょっと辛めなんですよ」
そう言って、有紀君は水を口に含んだ。うん、私もそう思っていた。
「桜木さん。これは絶対に覚えておいて欲しいんですけど、英会話を成功させるためには、三つの要素が上手く回らないといけないんです」
そう言って、有紀君は『カレールー』、『ナン』、『水』の三つを指差した。私はそれらをじっと見つめながら考えた。何だろう、三つの要素って。ネイティブ講師? 英会話スクール? 楽しさ? ネイティブ発音? 海外経験? いろいろなものが頭をよぎったが、どれも違う気がした。
「一つ目は、『時間』です」
そう言って、有紀君は『カレールー』を指差した。
「英会話の上達には、絶対に時間がかかります。これだけは覚悟して下さい。少なくとも、年単位で計画を立てるべきですね」
年単位か・・・長い。できれば早く結果を出したいと思う私としては、やはり気が重くなった。
「・・・でも、よく数時間で、とか数週間で英語が話せるようになる、みたいな本がありますけど、それってどうなんですか?」
「否定はしませんけど、まず英会話を始めるに当たって明確にしなくてはいけないのは、自分のゴールなんです」
「自分のゴール、ですか?」
「はい。人によって、英語のゴールはそれぞれです。道案内ができるようにしたい、海外旅行で困らないようにしたい、字幕なしで洋画や海外ドラマを楽しみたい、TOEICで高得点を取りたい、通訳になりたい。それこそいろいろです。そしてゴールが違えば、距離も移動行程もそれぞれ違うはずなんです。簡単に到達できるものもあれば、一生かかっても届かないものもあります。ただ、もしも道案内ができるようにしたい、だけであれば、距離は短めでしょう」
そうか。定型フレーズを丸暗記するだけで、なんとかなるからだ。すぐに終わる。
「僕たちの教室は『自分が言いたいことを、ネイティブと同じ感覚で、世界に向かって恥ずかしくない英語で堂々と話すこと』をゴールとしています。だから、絶対に時間はかかります」
『世界に向かって恥ずかしくない英語』! 何て魅力的なゴールなんだろう。でも、距離がぐーんと長くなったみたい。確かに年単位はかかりそうだ。有紀君は、今度は『ナン』を私に掲げて、
「二つ目は『モチベーション』です。長い時間をかけるためには、強いモチベーションがなくてはなし得ませんからね。それは『英語が好き』という趣味感覚でもいいですし、『仕事で使わなくてはならない』という義務感覚でもいいと思います。ただ、『なんとなく英語を話せたらいいな』みたいな軽い気持ちであれば、期待はできないと思います」
確かに軽い気持ちでは、物事は長続きしないものだ。
「よく『英会話は楽しみながら勉強しないと身に付かない』と言いますけど、それはモチベーションの維持に繋がりますから、その通りだと思います。吸収率だっていいでしょう。ただ、『楽しさ』だけで終わってしまう危険性もはらんでいますから、気を付けて下さいね。いいですか? 上手になるから『楽しい』んです。スポーツと一緒です。勝てるから『楽しい』んです。『楽しさ』の中身を履き違えないで下さい。『遊び』で終わっちゃダメなんです。そんなことよりも大事なのは、三つ目なんです」
私は頭を捻った。今までに欠けていたものは何だったのか。私にも時間とモチベーションは十分にあった。ということは、『三つ目がよくなかった』ということになる。私は今までの勉強方法を思い返し、ハッとした。
「もしかして、三つ目って・・・『やり方』ですか?」
有紀君は「ビンゴです」と微笑み、『水』の入ったグラスを掲げた。
(次回に続く)