「勤務医」「開業医」で働き方は大きく変わる
ひとくちに医師といっても、その働き方や仕事内容は医師によって大きく違います。一般の人がイメージする医師は、患者を診療する臨床医ですが、同じ医師免許を持っていても、患者と接しない研究医もいます。
iPS細胞の開発で有名になった山中伸弥医師は、もともと整形外科で臨床医になるつもりでしたが、他の医師に比べて不器用であったことから、研修医時代に指導医からよく怒られて、後に研究医へと進路を変えたそうです。
臨床医でも研究医でもない医師もたくさんいます。そもそも医師免許は、医師の資格を付与するだけのものなので、医師として働かなくてもいいのです。医師免許を持っているけれども、一般企業の経営者であるとか、専業主婦であるとか、そういった方もいます。
医師としての知識を活かした仕事であれば、たとえば国家公務員の医系技官という職もあります。医療業界に関する法整備などに、医療の知識が必要になるからです。製薬メーカーで研究を行ったり、医療コンサルタントとして働いたりする医師もいるでしょう。
臨床医も、診療科によってその仕事の内容は相当に異なります。たとえば、病院の麻酔科医のように、手術患者の麻酔だけを行っている専門医もいます。
さて、このようにさまざまな形態がある医師の仕事ですが、別の切り口から見ると様相が一変してきます。それは、勤務医か開業医かという点です。臨床医であれ研究医であれ、あるいは医系技官であれ、どこかに勤めて給料(サラリー)をもらうのであれば勤務医になります。
一方、自分の医院を持って経営者になるのであれば、診療科が何であれ開業医です。この違いは、働き方に大きな影響を与えます。
勤務医の場合は、組織の一員として、組織の指示命令に、おおむね従わねばなりません。たとえば、患者の治療方針についても、上司の指示命令が強力であれば、自分の考えをまげねばならないときもあります。ましてや、病院の運営や雇用については、ほとんど意見を通すことはできないでしょう。これは、組織の一員である以上は不可避のことです。その組織のトップにならない限り、一構成員である医師が、組織の方針に自分の意見を通すことは難しいでしょう。
それに対して、開業すると組織のトップになりますから、自分の思い描く理想の医療を追求することができます。大きな総合病院と市井(しせい)のクリニックとでは役割が違いますから、勤務医で居続けるか、開業医になるかは、医師としての生き方やキャリアの違いにもつながってきます。
もちろん開業にはリスクがあります。開業資金は、金融機関などから融資を受けることになりますし、医療だけでなく、集患やマネジメントなどの経営にも意識を配らなければならなくなります。リスクを避けたいというのであれば、勤務医であるほうがずっと楽でしょう。
逆に、勤務医で居続けることは、常に組織の一員であることから免れられないということです。上司や同僚との関係を良好に保つことや、出世競争や派閥争いの中である程度うまく立ち回ることが求められます。
しかし大きな組織に守られているというメリットもあります。高額な医療機器や、腕利きのスタッフを何人もそろえたり、難病患者の受け入れや、チャレンジングな症例や手術を引き受けることができるのは、大病院に勤めているからこそできることです。
いわゆる出世を求めるのであれば、これまでは医局(大学病院)において昇進し、大学教授になるのがひとつの成功例でした。
それがかなわなければ、関連病院に出向して、その診療科のトップになるか病院長になるという道もありました。大学病院と市中病院との違いはありますが、いずれも勤務医としての出世コースです。
しかし、医師といっても、それぞれライフスタイルややりたいことは異なります。たとえば、子育てにも力を入れたい女性医師は、ワークライフバランスを重視して、あまり緊急体制が要求されない皮膚科や眼科を選ぶことがあります。
臨床ではなく基礎研究に従事して、医療業界の明日を切り拓く礎(いしずえ)になりたいと考える医師もいますし、現場で困っている人を一人でも多く救いたいと、無医村に赴(おもむ)く医師もいます。誰もが出世を望むわけではありません。管理職を望まず現場の医師で居続けたい人もいますし、マイペースに自分の望む医療をやっていきたい人もいます。そのような場合は、開業医となる方が幸せなキャリアだといえるでしょう。
医局での労働に「ジレンマ」を感じていた医師の事例
今はかなり自由になりましたが、かつての医師は医局に入ることが当然とされていました。そして、ひとたび医局に入ると、上司である大学教授にいわれるがままに仕事をしなければなりません。理想の医療を実現するために医師になったという人にとって、自分の思い通りの医療を実現できないということは、働くうえで大きなジレンマになってしまうのです。
41歳で小児科クリニックを開業した、小児科医の西村光敏医師は、それまでのキャリアには自己選択の余地はなかったと語っています。
国立福井医科大学(現・福井大学医学部)を卒業した西村医師は、当時の慣習に従って、そのまま福井医科大学の小児科の医局に入局します。今は研修システムが異なって、自分で研修先を選ぶことができますが、当時は卒業した医学部の医局に入ることが当然とされていました。そうして、福井医科大学附属病院の小児科で研修医として1年間の研修を終えた後、医局の指示で関連病院に勤務することになりました。
最初は、和歌山県和歌山市の日本赤十字和歌山医療センターの小児科で1年半、その後、福井県小浜市の公立小浜病院の小児科で1年半、それから福井県福井市の福井赤十字病院小児科で4年間と、医局の都合で異動を繰り返します。もちろん、どこの病院でも小児科の臨床医としての仕事はある程度同じものですが、異動のたびに引っ越しを強いられますし、新しい職場や人間関係に慣れるまでは時間がかかります。
西村医師が開業を考えるようになったのは、再び公立小浜病院に小児科医長として戻ってきてからのことだったそうです。公立小浜病院は、その地域の医療の中心となる総合病院でしたが、小浜市自体が人口3万人とそれほど大きくないこともあり、本来は街のクリニックで見るような一次医療も行わねばならない状況でした。
病院から車で50分圏内が医療圏とされて、遠方からも多くの患者が来るのに対して、小児科医は常時2~3人しかいませんでした。医師の偏在と人手不足、それに地方の過疎化があいまって、ひどく忙しい職場だったわけです。忙しいことがただちに悪いわけではありませんが、あまりにも忙しすぎると、細かい気遣いや丁寧なコミュニケーションができなくなります。
小児科だけでなく、病院自体の全医師数もそれほど多くなかったため、当直はすべての診療科の医師に配分され、なおかつたった一人ですべての患者を診なければなりませんでした。あまりにも症状が専門的すぎて手に負えないときは、オンコール状態で待機している医師を呼び出すのですが、待機している医師の方も気が休まらないものです。
こんな状態で理想的な医療ができるものかと、西村医師が悩みだすのにはそれほど時間がかかりませんでした。日本全体の医師不足も問題ですが、目下の課題は医師の偏在でした。よく調べてみれば、福井県内の医師数はそれほど少ないというわけではないのです。
しかし、福井県でも端の方に位置する小浜病院にはそれほど多くの医師が回されないのに対して、県庁所在地である福井市近辺には多くの病院や医師がいるのです。夜間だけでも他の医師が手伝いに来てくれればよいと考えた西村医師ですが、ピラミッド型のヒエラルキーである医局の中で、一医師の発言権はそれほど大きくありません。
県全体の救急診療や、夜間診療、休日診療についても、合理的な考えを持っていた西村医師でしたが、上司である大学教授に意見を進言しても、現実は変わりませんでした。決してその教授が横暴だったというわけではありません。医局と関連病院との間には、複雑な人間関係としがらみがあって、トップである教授の力をもってしても、人数の割合を変えるのは相当に難しかったのです。
これは何も医局に限った話ではありません。どんな組織であっても、規模が大きくなれば利害関係の調整が難しくなり、物事を変えるのは難しくなります。小浜病院の中だけですら、予約体制や診療体制について、西村医師の提出した意見はなかなか通りませんでした。自分の思う理想の医療を広い範囲で実現するには、時間をかけて医局の中で出世してそれなりの立場になるしかありません。
しかし、西村医師の頭にはもうひとつの考えが浮かびました。それが開業です。開業すると、自分のクリニックの中では、自分の望む医療体制が実現できます。そして、もしその手法が評判になって賛同者を集めることができれば、一クリニックからの草の根の運動として、医療業界を変えていくことも可能になります。
それまでは、勤務医であることに満足していた西村医師が、開業を考えるようになったのは、この瞬間からでした。当直でプライベートや体力を切り売りするのではなく、自分のライフスタイルを守りながら、多くの患者を救いたい。機材や薬品、病院の環境、看護師への教育など、組織の中で命じられたまま働くのではなく、理想の医療を自分の思い通りに実現したい。そして、自分の働きに見合う給与も得たい……。
医療に対する理想が高ければ高いほど、勤務医であることへのジレンマは強くなります。しかし、そうしたジレンマは勤務医のままでは到底解消できません。理想の高い医師ほど開業を考えるのは、至極当然のことなのです。