「勝ち癖」を知ったキーエンス時代だったが…
キーエンスでは、僕は実際に「勝ち」を体感することになります。やるべきことをきちんとやっていれば、必ず勝てる。そんな思考回路も得ることができたのでした。勝ち癖を知った、と言い換えてもいいと思います。
入社後、まず驚いたのは、徹底的に準備をさせられたことです。アポイントに行く前には、どんなお客さまのところに行き、何を話して、どう着地するのかを、事前に先輩とロールプレイングします。これが、何度も繰り返し行われるのです。
また、移動時間や訪問についても細かな指摘を受けました。僕は滋賀県の営業担当でしたが、アポイントを取るときに、どう取れば効率的なのかを常に問われました。「その取り方は無駄だ」とよく言われました。移動の仕方も、「その道はやめたほうがいい」などとアドバイスされる。無駄を省く訓練を、外出報告のたびにされるのです。
しかも、こうしたことが細かく指標化され、ランキング化される。「勝手にやっておいて」ではなく、きちんと丁寧に指導が行われ、誰がやっても結果が出るように、という上司の教育ポリシーがありました。だから、僕自身も1年目からレベルを上げやすかったのだと思います。
ウエディングパークでは、マネジメント層の部下に対する細かなケアやフィードバックが「ベンチャーらしくない」と言われることがあるのですが、これはひとえにキーエンスでの経験によるものです。
そして、僕がたまたま配属された新大阪の営業所の所属グループは、僕が入社した年、日本一になります。僕自身も、新人の中で全国2位の成績を残すことができ、2年目には営業の西日本代表としても表彰を受けました。
チームが結果を出し、そこに自分も一人の営業として貢献できたことは、大きな成功体験でした。仕事をする喜び、結果を出す喜び、勝っていく面白さ、成功して見る景色の素晴らしさを知ることができました。
また、成果には会社も報いてくれます。出した結果を、年齢に関係なく評価してくれました。これも心地良いことでした。結果を出せば評価され、会社をつくっていける、動かしていける、ということが分かったのも、このときのことです。
しかし、入社3年目となった2000年、僕の心は揺らぐことになります。この年はいわゆるインターネットバブルの年。理系だったけれど営業も向いているな、と自信を深めていましたが、社長になって経営したい、という夢に変わりはありませんでした。
相変わらず、家に帰っては、経営者の本を読んだりしていましたから、いつになったら次のステップに進むことができるのか、分からずに悶々としていたのです。キーエンス社内では、社員の間で起業しよう、などという雰囲気はまったくありませんでした。
たまたま書店で見つけた書籍『ビットバレーの鼓動』
そんなときに、メディアがインターネットベンチャーを次々に取り上げ始めたのです。僕と年齢もほとんど変わらない起業家たちが、インターネットという新しい産業で社長になり、世の中に対してインパクトを与え始めているという事実を知って、もうじっとしてはいられませんでした。
なんといっても、みんな僕と同様に若かった。古い産業よりも、新しい産業のほうが、若い人が出てくる意味があると思いました。その意味でも、インターネットには強く興味が湧きました。
しかし、当時の僕はインターネットといっても、メールくらいしかやっていませんでした。まだダイヤルアップ回線を使っている時代。後にインターネットがどうなっていくのか、まったく分かりませんでした。ただ、これだけ起業家にスポットが当たり、活躍しているとなれば、僕が飛び込んでもなんとかなるのではないか、と思ったのです。
当時、僕がいたのは大阪。インターネットで大きな盛り上がりを見せていたのは、東京。だから、リアルを知りませんでした。ただ、大変なことが起きるのではないか、という期待は大きかったのです。
そんなとき、たまたま書店で見つけたのが、書籍『ビットバレーの鼓動』でした。ベンチャー系の経営者が30人近く登場していたのですが、心に引っかかった社長が一人いました。それが、サイバーエージェントの藤田晋社長でした。
藤田社長は僕の二つ年上になります。同世代という共感もあったのかもしれませんが、藤田社長が出ていたページが僕はとても気になりました。文章を読んでいて、人柄に惹かれるな、と直感で思ったのです。
それをきっかけに藤田社長のウェブサイトのページを見にいくと、ベンチャー起業日誌というブログのようなものを藤田社長が書いていました。それを読んでも本の印象と変わりがない。リアルな社長としての人柄が出ていました。僕は藤田社長の考え方にも共感できました。
サイバーエージェントから届いた返信メール
今では人材紹介会社など、転職には便利な時代になっていますが、当時はそういう会社があるということすら知らず、僕が起こしたアクションは、サイバーエージェントのコーポレートサイトの問い合わせフォームに入力することでした。
買ったばかりのNECのデスクトップパソコン「PC98」を使って、これは本当に届くのかな、東京とつながっているのかな、などと思いながら「日紫喜といいます」と文章を入力して問い合わせをしたことを今でも覚えています。
そうすると、2週間後くらいに返事が来ました。反応がないので半分諦めていたら、サイバーエージェントの人事部からメールの返信が来たのです。「ご連絡ありがとうございます。大阪に営業所があるので、一度来られますか?」と。それが、1回目の面接になりました。
僕はサイバーエージェントについても詳しく知りませんでした。というより、調べてもよく分からなかったのです。当時、サイバーエージェントは赤字でしたが、赤字という情報もよく分かっていませんでした。
ですから、完全な直感だったのです。藤田社長に魅力を感じるので、良いのではないか、と。それだけです。経営については知識がないし、インターネットもよく分からなかったので、この人のもとで社長業を学ぼうと思ったのです。
年齢が近いほうが、やっぱり共感もできると思いました。この人にできて、どうして自分にできないのか、ということも分かりやすいと思いました。会社は当時、100名ほどの規模でしたし、これなら絶対に近くで社長が見られるだろう、と。
もう一つ、大阪でずっと営業をやっていましたから、渋谷で仕事をしたら東京についても分かるだろうと思いました。東京にいて、年齢が近い社長で、インターネットという新しい産業ということで、サイバーエージェントは僕にぴったりだったのです。
結局、僕の転職活動はこの1社だけとなりました。転職活動というか、問い合わせをしただけだったのですが。実のところ僕は、サイバーエージェントの正式な人材募集に応募したわけではないのです。言ってみれば、道場破りのようなものでした。今思えば、よく採用してくれたと思います。
僕はこの2000年、24歳で結婚したばかりでした。サイバーエージェントに転職を決めたのは、結婚した数カ月後のことです。
僕がいずれは社長になりたいと思っていたことや、インターネットに興味を持ち、いろいろ調べていたことは妻も知っていました。ありがたかったのは、妻の寛大さです。
二人とも東京にはまったく土地勘がなく、日帰りで行って住む場所だけ決めてこよう、と新幹線で行ったのを覚えています。その日に帰りたいので、と不動産屋に飛び込み、3軒ほど紹介してもらってマンションも決めて帰りました。
考えてみたら、妻だけが応援してくれたのでした。僕はそれをチャンスと捉えて、ならば行こう、と決めました。給料は大幅に下がりましたが、若かったんだと思います。だから、夫婦二人ともワクワクするほうに賭けたのだと思います。
実際には、入社してみると当時のサイバーエージェントは創業期ならではの大変な状況でした。しかし、自分で決めたことでしたので、「これで良かったんだという結論を自分でつくっていくしかない」という覚悟は持っていました。そして、僕はサイバーエージェントに入社しました。社員番号は148番でした。
日紫喜 誠吾
株式会社ウエディングパーク 代表取締役社長