感動づくりができる職業として思い至った「社長業」
僕は28歳でウエディングパークの社長になりました。いつか社長になりたい、という思いで、当時はまだ海のものとも山のものとも分からないインターネット業界に飛び込もうと、サイバーエージェントに転職をしたのでした。
父親は普通のサラリーマンでしたし、まわりに経営者がいたわけではありません。起業家が少しずつ有名になっていく時代でしたが、まわりを見渡して「そんな人は世の中に本当にいるの?」と思っているほどでした。
転機になったのは、大学3年のとき。就職活動が近づいてきて、「そもそもどういう大人になりたいのか」を考え始めたことでした。一つ見えた方法論が、自分がワクワクしたり、かっこいいと思う大人はどんな人なのか、というシンプルな問いかけでした。
そこで真っ先に浮かんだのが、大好きだった映画。僕は1976年に岐阜で生まれたのですが、当時はテレビでよく洋画を放映していました。それを家族で集まって観ていたのです。
映画を観ていると、心がジーンとしたり、熱くなったりします。感動できるというのは、とても素敵なことだな、と改めて気づきました。その気づきの一歩先にあったのが、どうせ大人になるのであれば感動を与える側になりたい、という思いでした。そういう大人になれたら、かっこいいな、と。
僕はスティーブン・スピルバーグ監督の映画が特に好きでした。ヒューマンタッチでも、アクションドラマでも、常にいろんな感動がある。スピルバーグ監督こそ、僕が最もかっこいいと思っていた人物でした。世の中に対して作品を打ち出し、感動させられるのは、本当に凄いことだ、と。
ただ、映画をつくるということになると、これはこれでまわりに誰もいません。スピルバーグ監督のような人になりたいな、とは思ったものの、映画監督が仕事なのか、ということも含めて、あまりに飛躍し過ぎていて、ピンときませんでした。そこで、「そうか、映画でなくてもいいから、自分で何かをつくって多くの人に感動してもらえるようなものを提供すればいいのか」と思い至ったのです。
このとき、自分の意思を貫いて、感動づくりができる職業としてシンプルに浮かんだのが、社長という立場でした。いつか自分が社長になって、人を感動させられるような仕事を生み出していこう。そう決めたのです。これが、大学3年のときでした。
ただ、何をやるかは分からない。自分は何が向いているのかも分かりませんでした。大学で京都に行き、世界の広さを実感していました。自分の可能性は、まだまだあるのではないかとも思っていました。
僕は、実は理系出身です。僕が学んだ同志社大学には、研究成果で世界で5本の指に入ると言われるディーゼルエンジンの研究室があり、そこに所属していました。大手自動車メーカーの研究所に学校推薦で行けるようなゼミでした。
ただ、そのぶん厳しい。朝から晩まで研究尽くし。プライベートはほとんどない。留年する可能性も高い。そんなゼミでしたが、あえてここを選んでいました。実は自動車に興味があったわけではなく、世界に知られるような研究室に行けば、厳しいかもしれないけれど、自分が揉まれると思ったからです。
一流と言われる人がどんな人なのかは、見たほうが早い。だったら、仲良しの友達と楽しく過ごすのではなく、あえてそういう場所に行こうと思ったのです。
ただ、たくさんの刺激は受けましたが、理系の先輩たちを見ていても、あまりワクワクできませんでした。順当にいけば、自動車やメカニックの世界、理系の世界に進んでいくのが当たり前の就職だったゼミの中で、僕はまったく違う選択をすることになります。
理系寄りではなく、もっと事業サイドの世界に目を向けないと自分の方向とずれてしまう、と研究室としては異例の就職を決めるのです。それが、営業会社としても知られる大手機械メーカー、キーエンスという会社でした。
小さくてもいいから、少しずつ一番をつくり上げていく
すでに決めていた目標は、社長になることでした。しかも、どうせ起業するなら、若いときに起業したいと思っていました。若くして社長になったほうが、大人としてかっこいいじゃないか、と。そのためには、早くから揉まれないといけない。それなら、大学時代に世界レベルのディーゼル研究の研究室に進んだように、早く一流の場に行ったほうが自分も引き上げられると思ったのです。
もう一つ大きな魅力に感じたのが、若い人にも実力主義でフェアであることでした。キーエンスは、営業力が日本でトップレベルの会社という点でも知られていました。社長になるには、お金を稼ぐ力(営業力)が必要、それがなければ社長にはなれないと思っていました。
営業ができなければ、経営者になったときに自分のウイークポイントになってしまう可能性がある。それなら、営業の力がつくところがいい。実は、営業の力がつくトップレベルの会社はどこなのか、という軸で調べたとき、良い所がある、と出てきたのがキーエンスという会社だったのです。ナンバーワンの場所で、揉まれていけるところを求めていたとき、ここだ、という会社を見つけたのです。
就職が決まったとき、当然ですが、ゼミではびっくりされました。どうしてうちのゼミに来てキーエンスに行くのか、と。学校推薦で、大手自動車メーカーに行くことができるのに、どうしてわざわざ、と。ただ、ゼミの人たちはその選択でワクワクできたのかもしれませんが、僕はまったくワクワクできなかった。だから、自分の選択に迷いはまったくありませんでした。
キーエンスは、価値ある高額の商品を、さらに付加価値をつけることで販売していく提案型営業が基本です。
入社後に実感したのは、「付加価値が重要」という考え方が、強烈な文化として根付いていることでした。また、いかに最小限の時間、最小限の仕事で最大限の付加価値を生み出すか、という生産性へのこだわりの強さです。
僕は今、インターネットメディア事業の経営者をしていますが、いかに生産性を高めて強い基盤で経営していくか、単に営業力ということではなく付加価値を出すことこそが営業では重要だ、という根本的な考え方は、キーエンスで学んだことです。
また、いろいろなものがランキング化され、可視化され、社内で競う風土も強烈な印象でした。営業としてのアポイント数も含めた、いろいろな指標がデータとして管理されていて、そこで1位、2位、3位と順位がつけられ、切磋琢磨していく。やるのであれば一番を目指そう、という空気感も印象に残っています。
さらに、キーエンスの「ナンバーワン主義」も重要なキーワードでした。基本的に、世界ナンバーワンの商品しか出さない、というポリシー。例えば、僕が扱っていたのは、工場の品質管理部門が不具合を見つけるために使う拡大顕微鏡マイクロスコープでした。20万円の顕微鏡が当たり前に使われているところに、400万円のデジタルマイクロスコープを提案するのですが、こうした商品はほとんどキーエンスしか扱っていませんでした。
キーエンスの出す商品は、世界初、業界ナンバーワン、一番というもので、そこにこだわってつくり、そこに付加価値を強く意識したセールス部隊が掛け合わさってくるのです。だから強かった。
局所的にでもいいからナンバーワンがあることは、会社を強くしていくのだと痛感しました。「地味でもいいから小さな一番をつくる」。これは、経営者になってからの僕のポリシーの一つになります。小さくてもいいから、少しずつ一番をつくり上げていく。これをやっていれば間違いなく一番になれる。実際にキーエンスは、それで勝ち続けていたのです。
日紫喜 誠吾
株式会社ウエディングパーク 代表取締役社長