「今の事態は避けられたかもしれないのに……」
Aさんは70代の小児科開業医です。地元では古くから続く医師一家で、Aさん自身も親から今の病院を継ぎました。名医として知られ、患者の子どもたちや親からも大変慕われています。
Aさんは昔から医業に全精力を傾けてきた人で、それ以外のことにはまったくといっていいほど関心がありません。お酒もたばこもやらないし、おしゃれにも興味がなく、趣味といえばたまにゴルフに出かけるくらいです。車も走りさえすればいいと、10年以上同じものに乗り続けています。そういう夫についてきた奥さまも、やはり質素な方です。
そんなご夫婦ですから、収入は預金通帳にたまっていくだけの状態になっていました。これまでに大きく使ったものといえば、子どもたちの教育費と自宅の建て替えくらいだと言います。
案の定、資産の棚卸しをしてみると、キャッシュが約9割を占めていたのです。Aさんの病院は医療法人ではなく個人開業だったので、病院の収入がそのままAさんの所得になっていました。
「所得税だけでも大変な額でしょう。どうしてこれまで節税されなかったのですか」と問うと、「私の税金で世の中が良くなるなら、それでよし」という答えが返ってきました。私は頭の下がる思いがし、「この方は本当に医者の鑑だ」と思いました。
しかし、相続のことを考えると、今のままの状態では心配です。「何か手を打ったほうが、遺されるご家族のためにもいいと思いますよ」と伝えましたが、「そうだね」と言うものの、いまひとつ心に響かない様子でした。
相続対策は、本人がその気にならなければ、こちらから無理に進めることはできませんから、そのときは「いつでも相談に乗りますから、困ったら声をかけてくださいね」とだけ言いおいて、その場を辞したのです。
Aさんの奥さまから電話があったのは、それから数カ月後のことでした。「ぜひ早めに会って、相談したいことがある」と言うので、何かと思えばAさんが末期のガンだというのです。医者の不養生とはこのことです。
主治医の見立てでは余命は半年。つまり、相続までのタイムリミットが否応なく半年後に設定されてしまったのです。他人事のようだった「相続」がまさに目の前にあります。リアルな実感として相続を考えたときに、Aさんのご家族はどうすればいいのか分からず途方に暮れてしまいました。
途方に暮れているのはAさんの家族だけではありませんでした。Aさんの急病で病院は休業を余儀なくされ、看護師は生活の不安に直面していました。取引先の医療品業者にとっても、大切な顧客を失ってしまうかもしれない事態です。何よりも影響が大きかったのは、地域の子どもや親たちです。顔なじみの先生がいなくなることの不安は計り知れません。おそらく「病院は嫌だけど、A先生なら行ってもいい」という子もいたことでしょう。
そういう事態が現実のものとなって、Aさんはひどく後悔をしていました。「なぜ、もっと早くに気づかなかったのか。せめてこの間あなたが来てくれたときに、もっと真剣に聞いていれば」「少しでも何かを始めていれば、今の事態は避けられたかもしれないのに……」と、しきりに口にしていました。
ただ、時間は少ないとはいえ、まだ半年あります。できることは多くはありませんが、何もしないよりは断然ましです。私はAさんに相応しいと思われる相続・承継プランを大急ぎで用意し、それを実行するにあたって必要となる専門家を紹介しました。私は動けないA先生の手足となって、資料を集めたり書類を作成したり、各専門家との橋渡しをしたりなどをさせていただきました。
Aさんはギリギリではありましたが、何とか息子さんへの承継を済ませることができました。相続税についても100点満点には遠く及びませんが、合格点を超えるくらいには準備を整え、納税もすることができました。
ただし、課題はまだ多く残っています。承継に向けた病院の体制づくりができなかったことで、新院長である息子さんは、看護師との関係や患者情報の引き継ぎなど、これから大変な苦労をすることになります。
また、今回は緊急避難的に対策を取ったため、次に奥さまが亡くなったときの相続(二次相続)で多額の相続税が発生することがすでに分かっています。この問題をどうするかについても考えていかなければなりません。
Aさん家族は今後も引き続き、時間をかけて対策を取っていくことになります。
相続手続きの基本的な流れをつかむ
何の準備も心づもりもないまま相続を迎えてしまうと、遺族や病院スタッフ、患者、取引先など関係者全員をパニックに陥れることになります。Aさんの場合はかろうじて間に合いましたが、これがもし時間切れとなっていたら、どのような事態に陥っていたでしょうか。
遺族は「相続」「医業承継」というものへのイメージがありませんから、行き当たりばったりで対応するほかなく、一貫性のある相続・承継をすることが難しくなります。どうにか形だけ整えて相続・承継ができたとしても、それで円満な解決とはなりません。
なぜなら、方向性を持たない見切り発車での相続・承継というのは、〝設計図なしに建てた家〟のようなものだからです。思いつきや感覚だけで建てた家は、一見まともに見えてもいずれ歪みや不具合が生じ、家としての機能を果たせなくなります。それと同様に、その場の都合や安易な判断で進めた相続・承継は、いつか家庭内・病院内に問題を生じさせ、破綻する可能性が高いのです。
行き当たりばったりにならないためには、まず「相続が起きたら、どのような流れで物事が進んでいくのか」「いつまでに何をしなくてはいけないのか」を、開業医本人も家族も知っておくことが重要です。
相続の流れのなかでも一番重要なのは、相続税の申告と納付です。相続税の申告・納付には期限が定められているためです。
もし相続財産が基礎控除枠内で収まる、相続税がかからない家庭であれば、申告の必要はありません。年間に発生する相続のうち、相続税がかかるケースは4.4%というデータがあります(国税庁「平成26年分の相続税の申告状況について」)。これは相続税が改正される以前のデータで、課税対象が拡大された平成27年以降に関してはまだ集計されていませんが、おそらく6%程度になると予想されています。つまり、100件のうち94件は、申告手続きそのものが必要ないということです。この場合は、特にタイムリミットはありませんから、遺産分割の話し合いなどもゆっくり進めることができます。
しかしながら、開業医の家庭はその多くが相続税の対象になってきます。相続税を計算するときに認められている優遇制度を利用することで、相続税がかからなくなるケースでも申告は必要です。
相続税の申告・納付が必要なケースでは、相続発生と同時にカウントダウンが始まります。もし期限内にできないとなると、それなりのペナルティーを受けることになりますから、悠長なことは言っていられません。
まず、相続税の申告については、「相続の開始があったことを知った日(通常は、被相続人の死亡の日)の翌日から10カ月以内」という期限があります。
何の準備もなく相続を迎えたとなると、この間に、相続財産をリストアップして評価額を算出し、相続人全員での遺産分割協議を経て分割を決め、各相続人が負担すべき相続税額の計算をし、申告書の作成・提出をしなくてはならないのです。
ちなみに、申告書は相続人全員共同で1通を、故人(被相続人)の住所地を所轄する税務署に郵送もしくは直接持参することで提出します。相続人の住所地を所轄する税務署ではない点に注意が必要です。
相続放棄あるいは限定承認をする場合の期限は、相続開始から3カ月以内です。
相続放棄は、文字通り「遺産の相続を放棄する」ことです。相続財産に占める負債の割合が大きいなど、遺族が相続に魅力を感じられないケースや、家業の経営を安定させるために後継者に遺産を集中させたいといった、一部の相続人が相続を辞退するケースなどで使われます。
限定承認は、「相続財産を責任の限度として相続する」ことです。たとえば、相続財産のなかに負債があった場合、ほかの相続財産から負債を弁済した後で、余りが出ればそれを相続するという方法を採ります。相続人が負債を相続したくないときに使われますが、現状はあまり利用されていません。
こうしてざっと相続の流れを見ただけで、とても余計なことをしている時間的余裕はないことが分かってくるでしょう。だからこそ、いざ相続が発生したら遺族が前だけ向いて手続きを進められるように、生前のうちにできる準備をしておく必要があります。
相続では、被相続人が死亡時に所有していた財産のすべてを相続人が引き継ぐことになります。プラスの財産(積極財産)もマイナスの財産(消極財産)も、〝金銭に見積もることができるものはすべて〟相続の対象です。日本国内に所有している財産はもちろん、海外に所有している財産も含まれます。
プラスの財産には次のようなものがあります。
不動産……宅地、家屋、事業用地、事業用建物、畑、農地、山林、店舗など
不動産上の権利……借地権、借家権、定期借地権など
金融財産……現金、預貯金、出資持分、有価証券、手形債権、株式、貸付債権、公社債など
動産……車、家財、宝石、貴金属、書画、骨董など
その他……ゴルフ会員権、電話加入権、著作権、特許権など
マイナスの財産には次のようなものがあります。
借金……借入金、買掛金、手形債務など
医療機器のリース
債務保証……連帯保証など
その他……未払い費用、未払い利息、未払い医療費、預かり敷金など
また、被相続人の死亡に伴って相続人のもとに入ってくる財産は前述以外にもあり、「みなし相続財産」としてプラスの財産に含まれます。みなし相続財産としては、次のようなものがあります。
死亡保険金(生命保険金・損害保険金)
死亡退職金、功労金、弔慰金(一定額を除く)
生命保険契約に関する権利
定期金に関する権利(個人年金など)
遺言によって受けた利益(借金の免除など)
これ以外にも、「相続開始前3年以内に被相続人から暦年贈与された財産」や「相続時精算課税を用いて贈与された財産」も課税対象になります。
現金や預貯金は額面がそのまま金銭的価値になりますが、土地や建物、出資持分などは通常、時価で換算することになります。ただ、時価といっても曖昧なため、課税の公平という観点から、実務上は財産評価基準に従って評価をします。
土地の評価法には、①路線価方式と②倍率方式があり、より重要になるのが路線価方式です。
① 路線価方式
路線価というのは、道路に面する宅地の1㎡当たりの評価額のことです。道路ごとに1㎡当たりいくらと値段が決まっていて、これに地積を掛けることで、その土地の評価額が求められます。たとえば、路線価20万円の土地が50㎡あれば、20万円×50㎡で1000万円という計算になります。
路線価は毎年変わり、7月1日に全国の国税局・税務署で公表されます。国税庁のホームページを開けば、誰でも見ることができます。参考までに、平成27年度の全国の路線価トップは、30年連続で東京の中央区銀座5丁目の文具店「鳩居堂」前で、1㎡当たり2696万円でした。
② 倍率方式
もう一つの倍率方式は、路線価が定められていない地域の評価方法で、固定資産税評価額に一定の倍率を乗じて評価します。
建物の評価は、固定資産税評価額をそのまま適用し、出資持分の評価は、取引相場のない株式の評価法に準じます。
どこの家庭で相続が起こっても、遺産分割協議に一番時間を割くことになるでしょう。話し合いの時間が十分に取れないがために、遺族間で不満が残ったり、争族が起きたりするケースが多い部分だからです。速やかに分割協議に入れるようにするためには、話し合いのベースとなる相続財産を確定しなくてはなりません。そのためにも、財産のリストアップを早い段階で進めておくことをおすすめします。