妻の死後、生活を支えてくれた女性と突然の再婚
そんな状況の中、レスラーさんの奥さんが病気で亡くなった。享年60歳。レスラーさんが62歳の時だった。若くして亡くなったのは、レスラーさんに暴力を振るわれてきたせいかもしれない。日々の気苦労からくる精神的な疲労があったのだろう。
独り身となったレスラーさんは、家事全般を奥さんに任せていた。そのため、私は奥さん亡き後の生活を心配した。また、レスラーさんは少し前から糖尿病を患っていた。レスラーさんの妻は会社の重役でもあったため、その後の経営体制についても考える必要があった。
そこで次男が指揮をとり、家族会議を行うことになった。レスラーさんと付き合いが長く、会社のことをよく知っているということで、税理士である私と会社の顧問弁護士もその会に参加することになった。
「1人だと色々と心配ですね」顧問弁護士が言う。
「大丈夫だって。俺は1人でやれるよ」レスラーさんは強気だった。
「そうは言っても病気のこともあるし、誰か近くにいたほうがいいんじゃないかい?」
私はそう言い、長男、次男のほうを見た。次男の家は狭く、物理的に父親との同居は難しい。頼みの綱は長男なのだが、レスラーさんとの関係性のことを考えると、その選択も非現実的だった。長男は無言のままじっと目を伏せていた。同居するつもりはまったくない様子だった。
「奥さん、どうですか?」私は長男の妻に聞いた。
「お酒をやめるならいいですよ」妻が言う。
彼女も気が強い性格で、頑固さという点ではレスラーさんに匹敵するくらいであった。レスラーさんもまったく引かない。
「冗談じゃねえ。こっちからお断りだ」そう言い捨て、さっさと部屋を出て行ってしまった。
どうしたものかと心配したが、長男夫婦はどうにもしなくていいと考えていた。「子どもじゃないので、大丈夫でしょう」ため息をつくようにして長男が言う。
「いいのかい?」私が次男に聞くと「本人が嫌がっているので、仕方ないです」と答えた。
帰り際、私と弁護士は駅に向かって歩きながら、レスラーさんのことを話した。
「レスラーさん、強がってはいたけども、しょんぼりしてたねえ」私が言う。
「奥さんが亡くなったことがショックだったんだろうけど、長男の嫁に厳しく言われたのも効いたんだろうな。まあ、これまでのことを振り返れば、酒をやめるっていうのは当然ともいえる条件だと思うけど」
「そうだなあ。しかし、あの嫁さんは強いな」
「ああ、強い」弁護士はそう言い、笑った。
「レスラーさんとやり合うなら、あれくらいでなきゃいけない」私もそう言って笑った。
それからしばらくの間、家族の間には何の問題も起きなかった。レスラーさんが飲みすぎ、何かやらかすのではないかと心配したが、意外と大人しく、かつてのように警察沙汰になることもなかった。
事態が大きく動いたのは家族会議から3年ほど経った時のことだった。
「先生、ちょっと困ったことになりまして」次男が電話で言う。彼が社長になってからも経営は順調だった。困ったこととはレスラーさん絡みの何かだろう。直感的にそう思った。
「どうしたの?」
「父親のことなんですが、先日、ある女性と再婚したようなのです」
「え?」私は思わず聞き直した。
「再婚です。私も兄も、父が女性と住み始めたことは知っていたのですが、籍は入れるなと念を押していたんです。しかし、父は言うことを聞かず、入籍してしまったんです」
次男の話によると、相手は近所で小料理屋をやっている女将さんだという。奥さんが亡くなった後、料理ができないレスラーさんは外食中心の生活になった。そのうち、その店の常連になり、女将さんと仲よくなり、一緒に住むようになったのが半年前のことだそうだ。
「引っ越すからと連絡があって、その時に女性と一緒に住むのだと知りました。父はなんだか嬉しそうでした。僕としても父の日々の生活のことが心配でしたし、飲みすぎないように目付役になってくれる人がいるといいとも思っていたので、一緒に住むのはいいことだと思いました」
「ただし、籍は入れないようにと伝えたんだね?」
「はい。そう約束したのですが『籍入れたからな』と連絡があったんです」
兄弟が入籍しないように言ったのは、再婚することによって相続が複雑化するのを避けたいと思ったからだ。
過去に次男との雑談の中で、そういう話をしたことがあった。
妻に先立たれた男が、他の誰かを好きになることもある。超高齢化が進み、人生100年とまでいわれる日本では、高齢者層でそういうケースが増える。それ自体は別に悪いことではない。
恋をすれば人生に張り合いが出る。しかし、恋と入籍は分けて考えたほうがいい。法律上、死亡した人の配偶者は、初婚、再婚に関係なく相続人となり、相続権が発生する。配偶者が資産の半分を受け取り、残りの半分を子どもが受け取る。子どもとしては相続分が減るわけだから面白くない。それが原因で、子どもと相続トラブルになる例は珍しくないのだ。
レスラーさん再婚は、まさにそのケースだ。兄弟としては不満だろう。再婚相手とは面識もない。次男は、まったくの他人が会社の経営にも関わるのではないかと不安を感じていた。
「以前に少し話したかもしれませんが、先生にはいずれ、父の財産の相続でもお世話になろうと思っています。すみませんが、どうなっているか調べていただけませんか」
「よし、調べてみよう」私はそう答え、次男との電話を切った。
再婚相手に「相続放棄の約束」をさせたらしいが・・・
私はすぐにレスラーさんに電話をかけた。
「おお、先生。久しぶりだね」レスラーさんは元気にそう答えた。挨拶もそこそこに、私は早速再婚の件について聞いた。
「早耳だなあ、先生。相続のことが気になって電話してきたんだろう? その点は大丈夫だよ」
「大丈夫というと?」
「新しいカミさんには相続を放棄してもらったんだよ。たまたま相続を専門でやっている弁護士さんがいたので、その書類も作った。だから問題ない」レスラーさんはそう言った。
相続する財産の割合は、相続人の続柄と数によって変わる。民法が規定している法定相続分を目安にすると、レスラーさん一家の場合は、再婚相手が半分、残り半分を長男と次男が分けることになる。
ただし、相続は放棄することもできる。一般的には借金の相続を避けるために放棄する人が多いが、遺産分割のトラブルを避けるために放棄する人もいる。
レスラーさんの場合は後者のケースに入る。再婚相手に相続の権利が発生することで、子どもたちともめてしまう可能性を未然に防ぐため、再婚相手に相続を放棄してもらったというわけだ。
「ちゃんとできたのかい? 一度、私が書類を見ようか?」私はそう提案した。
レスラーさんとは節税の話などはよくしてきたが、相続について話した記憶はない。おそらく自分で調べたり、手続きをした弁護士に聞いたりしたのだろうと思ったが、不備があるかもしれない。
「大丈夫だよ。息子にもそう言っておいてくれ」レスラーさんはそう言って電話を切った。取り越し苦労だったか。私はそう考え、笑ってしまった。レスラーさんらしい根回しだと思ったからだ。
レスラーさんは金にうるさい。コツコツと築いてきた財産を簡単に誰かに渡したりはしない。次男に譲ったとはいえ、会社も大事だ。そう考えて、相続放棄を思いついたのだろう。
私は受話器をとり、次男に電話をかけた。再婚相手とは相続放棄の約束をしたらしい。そう伝えると、次男も安心したようだった。