不意のチャイムの音に、雪江は驚いてピアスを落としてしまった。
(誰かしら、こんな時間に……)
出勤前の慌ただしい時間の訪問者。
セールスだったら、出ないで追い返そう。
雪江は落としたピアスを拾い、装着しながらインターホンのモニターを見た。
若くて美しい青年が、まっすぐインターホンのカメラを見つめている。
カメラ越しに目が合い、直接見られているわけでもないのに、雪江はドキッとした。
「……どなたですか?」
「相川さんの紹介できました、HKサービスの佐藤と申します。今日はご挨拶に伺いました」
派遣会社を経営している友人・相川望(あいかわのぞみ)にハウスキーパーの紹介を頼んでいたことを、雪江は思い出した。
(だからって、なんでこんな時間に……)
そう思いつつ、エントランスのキーを解除した。
「突然伺って申し訳ありません。このたび、こちらのハウスキーパーを担当させていただくことになった、佐藤と申します」
「……男性のキーパーさんなんて珍しいわね」
「いえ、最近はそうでもないんですよ。家事代行であれば女性がほとんどですが、ハウスキーパーは力仕事も含め家の中全般のお手伝いをするので、男性の需要も多いんです」
青年の話を聞きながら、雪江は壁にかかっている時計を見た。
「あの……もし僕が気に入らなかったら、別の者に変わることもできますので」
「そういうことじゃないの。そろそろ仕事に行かなきゃならなくて」
「あ、そうですよね。申し訳ありません!」
次回お伺いした際に正式な契約と具体的な仕事内容を指示してください、と青年は言い、会釈をして帰っていった。
柔らかそうな髪と、微笑んだ時の綺麗な歯並びが印象的な好青年だった。
歯科医の雪江は商売柄、初対面の人の歯を見てしまう癖がある。
大学を卒業後、母校の口腔外科に10年勤めた。開業した大学時代の先輩・伊藤健(いとうたける)に誘われ、以後フリーの歯科医として先輩の「イトウデンタルクリニック」で働いている。
ここ数年、イトウデンタルクリニックはよくメディアで取り上げられるようになった。その際、いつも雪江が取材対応をさせられている。
「女医の方が評判がいいから」と頼まれ、何度かテレビに出たこともある。
クリニックが繁盛するのはもちろん嬉しい。だけど美人女医として紹介されるのは、なんだか歯がゆい。
***
仕事から帰宅すると、部屋の中は真っ暗だった。
『今日も遅くなる。晩飯は会社でとるからいい』
夫からのLINEメッセージは、帰りの車中で確認していた。
雪江は、スーパーの袋からハーフボトルのワインとチーズ、出来合いのサラダを取り出しテーブルに並べた。
夫婦二人で最後に食事をしたのは、もう2週間前。
しかもそれは、マンションの近くのレストランだった。
もうしばらくキッチンでは朝食しか作っていない。
夫は残業が多い。毎日夜の7時ぐらいに晩飯の有無をLINEで知らせてくる。
家事は基本、雪江がやっている。多忙な夫がやってくれるのは、ゴミ出しとクリーニングの受け取りくらいのものだ。
二人とも忙しくなってしまったら、誰が家事をやればいい?
夫に分担できなければ、妻の雪江がやらないと家の中は荒れてしまう。
何度かそのことを愚痴ったら、夫はアウトソーシングを提案してきた。
それで結局、望の会社に相談したわけだ。
「いくらぐらいかかるか知らないが、費用なら半分持つから」
「いいわよ。私の方の経費で落とすから(※)」
※ ハウスキーパー代は経費になる?
編集N 法人だと「オフィス清掃」は雑費や事務所維持費などの項目で経費計上できますよね? 個人事業主の場合はどうなのでしょう?
税理士 個人事業主で自宅の一部をオフィスとしている場合には、オフィス部分の清掃費用は確定申告の際に経費として計上できます。
編集N 雪江のように、基本自宅をオフィスとしていない個人事業主の場合でも経費計上できるのでしょうか?
税理士 結論からいえば、できません。自宅はプライベートの場所ですからすべて家事費(経費にならないもの)になります。
編集N ちょっともダメなんですか?
税理士 「業務の遂行上必要な部分」が明確に区分できる場合には、その業務に必要な部分に係るものを必要経費として申告することができます。
例えばプライベートでは使わない仕事専用の部屋があるといったように、業務用のスペースが明確に区分されているような場合です。オフィススペースがない自宅だけのケースでは経費算入はムリですね。
かつて、自宅で保険代理店を営む個人事業主が、事務所として使用している部分の家賃や光熱費を必要経費としていたものを、「明確に区分されていない」という理由で必要経費が全額否認され、裁判でも納税者が負けた実例があります(平成25年10月17日東京地裁)。安易な自宅の経費計上は要注意です。
一人の晩飯は寂しい。
もし頼んだら、あのハウスキーパーは一緒に食事をしてくれるのだろうか。
(……なんてね)
寂しいからって誰でもいいわけじゃない。
寂しさを埋める相手も、アウトソーシングできたらいいのに。
***
翌朝、きっちり昨日と同じ時刻に佐藤巧(さとうたくみ)はやってきた。
同じようにインターホンのモニターを見つめる彼に、雪江は笑った。
リビングに案内すると、巧はすぐに契約書を取り出した。
内容を確認し、雪江は署名した。
「ではここに捺印をお願いします」
印鑑ケースから判子を取り出そうとしたら、手が滑ってしまった。
転がり落ちた判子を拾おうとかがんだ瞬間、同時にかがんだ巧が雪江の手を握った。
(あっ)
「す、すみません!」
慌てて巧が手を離した。
顔を上げたら、至近距離で目が合った。
綺麗な肌。柔らかいこげ茶の髪。
緩めのTシャツの襟元から、引き締まった胸が見える。
(こんな男の子といけないことをしたら、私の寂しさも埋まるのかしら……)
思いがけなく淫らな想像をしてしまった自分に、雪江は赤面した。
(つづく)
監修税理士:服部 誠
税理士法人レガート 代表社員・税理士